Novel


□たなごころ
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――主上の意見は胎果であるがゆえだ。
――何事も蓬莱を基準にして物を考えるのは良いとは思えない。
件の官吏の言葉には、そうした意味が少なからずこめられている。だが彼は、決して悪気があって言ったことではなかった。それは陽子も承知している。だからこそ、余計にたちが悪いのだ。
悪意のない言葉は、陽子の心をいたずらに傷つける。無闇に相手を叱りつけることもできず、ただ憤ろしさだけが身の内を駆け巡る。何かを言えば、今にも感情の箍が外れてしまいそうで、だから陽子は黙ってやり過ごすしかなかった。



「……何が、いけない?」
立ち去る気配のない景麒に向かって、陽子はやはり振り向きもせずに問う。
「何が悪い?わたしは、ちゃんとやってる。ちゃんと考えてる。最善だと思う方法を考えてる。何がいけない?何が悪いの」
胎果だからなのか。
怒りも悲しみも、全部が陽子の心を薄靄のように覆い尽くしていた。
「もう、疲れた……」
蝋燭の灯が掻き消されていくような、心許ない声だった。

硬く寂しげな背中を、景麒は見つめた。
そっと、牀榻に浅く腰掛ける。衣擦れと、臥牀の軋むわずかな音がした。
「あなたの責ではありません」
淡々と、彼は伝える。
「あなたは何も、悪くない」
沁みるような声が、落ちてくる。
薄い夜着の下、少女の小さな肩が微かに震えるのを、景麒は認めた。
泣いているのかもしれなかった。

少し迷うふうを見せながら、陽子は身を捩る。肩越しに景麒を振り返った。
ようやくまみえた翡翠の瞳は、うっすらと透明な膜に覆われているように思えた。
無言のまま視線を交わせる。
陽子の唇が、何か言いたげに開き、けれどもすぐに閉じられた。かわりに、彼女は完全にその身を景麒の方へと傾けた。膝を折り曲げて、ほんの少しだけ彼に寄り添うようにして。
景麒は手を伸ばし、柔らかな感触の赤い髪を梳いてやる。優しく、愛おしむように、小さな子どもをあやすように。
陽子の瞳が震える。何かを耐えるように敷布を掴み、顔を伏せてしまった。

――ごめん……ありがとう。
くぐもった囁き声が聞こえた。
いいえ、と景麒は答えた。

感謝すべきなのは己の方だ、と彼は思う。何もかもを拒むこの空間に足を踏み入れることを、彼女は許諾してくれた。そしてそれを許されるのは唯一、自分だけなのだと、そう思いたかった。
祈るように、掌を少女の髪に滑らせる。





翌日、陽子は睨みつけるようにして溜まった仕事を黙々と片付けていた。










※※※

ふてくされる陽子と、それを宥める景麒。という妄想は常に頭の中で渦巻いていたので書いてみました。
なるべく原作での二人の性格をそのまま引継ぎたいんですが、私が書くと、なぜか陽子はしおらしく、そして景麒はただの優しいお兄ちゃんになってしまうのでした。

20100606
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