Novel


□葵心
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少し休憩をしようと思った。
陽子は椅子から立ち上がり、窓を開けて空気を入れ換えた。雲海から吹き寄せてくる風が、潮のかおりを運んでくる。
結い上げていた髪をほどいた。榻に深く腰掛けて、ひとつ息を吐く。靴を脱ぎ、そのまま横になった。
眠るつもりはなかったが、身体は思いのほか休息を求めているようだった。開け放した窓から流れ込む風の温度が心地よい。程よく疲労を感じていた身体は、徐々に微睡みの中へさらわれようとしていた。
重くなった瞼を閉じる。



完全に眠りへと落ちる前、誰かが部屋に入ってくる気配がした。
おそらく景麒だ。
底に沈みかけていた意識が少しだけ持ち上がったが、そのまま目を閉じ続ける。起きたくなかった。せっかく気持ちよい眠りにつけそうだったのに、ここで仕事を持ち込まれて邪魔をされるのは嫌だったから。
主が寝ていると分かれば、たぶん景麒は溜め息でもついて出ていくだろう。
陽子はそう思った。
そんなことを考えているうちに、再び意識は深淵へと引き込まれようとする。
――もう、本当に眠ってしまおう。
けれど、それは叶わなかった。



まず、景麒がなかなか立ち去ろうとしないことに訝しみを覚え、幽夢の漂いから少しばかり現実に引き戻された。寝ている自分を黙って見つめられているように感じるのも、何やら気が散る。
それでも起きるつもりはなかったので、ひたすら無視を決め込んでいた。



微かに衣擦れの音がした。
細い指先が自身の頬をかすめる感触がして、陽子はにわかに緊張する。くすぐったいような感覚が、全身に走る。
触れるだけだった手は、次第に撫でるような動きに変わっていった。顔に纏わる髪の毛を、払うように耳の後ろへかけられる。輪郭をあらわにされ落ち着かない。
景麒の手は、しばらく陽子の髪の中で気ままに戯れていた。すでに覚醒しきった意識の中、気まずいような後ろめたいような、そんな心持ちにかられる。



ふいに彼の手が首筋に滑り降りてきた。
思わず乱れそうになる呼吸を、陽子はどうにかして無理矢理に押さえ込む。
ただでさえ鼓動は早まっているというのに、景麒が首筋に手を置いたまま屈み込んでくる気配がしたので、さらに陽子の心臓は壊れそうに悲鳴をあげた。
彼の息づかいを間近に覚えて、もはやどうすべきか分からなくなった時、耳元に低い囁き声が降ってきた。



――起きてらっしゃいますね?



陽子は観念して目を開ける。降りかかる金髪が視界に入ってきた。
狸寝入りを諦めた主を見届けると、景麒はようやくその手を離し、屈んでいた身体を起こした。それに合わせて陽子も身を起こし、榻に座り直す。
少し気まずげに黙ったあと、陽子は目の前の麒麟を上目遣いに見やり呟いた。
「……なんで、分かった?」
すると彼は、口元にうっすらと微笑を湛えながら答えた。
「何でも分かります。主上のことは」



見くびってもらっては困る、とでも言いたげな様子だった。
陽子は思いきり長い溜め息を吐いた。
ぼんやりと窓の外に目を向ける。吹き込んでくる風が、幾分ほてった顔にひんやりと心地よかった。



景麒はどこか満足そうな笑みを、未だその顔に刻んでいた。










※※※

たまには短いのを書こうかなー、と思ったのと、たまには景麒に攻めてもらおうかなー、と思ったら、こうなりました。
タイトルの「葵心(キシン)」とは
臣下が君主の徳を尊び、忠誠をつくす心
という意味らしいです。
お話の内容と、まったく合っていないのを承知でつけました…。

20100611

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