Novel


□揚羽蝶が壊れる時
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そういう話、と呟いて主は口を閉じた。
「――あまり、楽しい内容の物語だとは思えませんが……」
黙って耳を傾けていた景麒は、なるべく控えめに感想を述べた。
「そんなのは、分かってるよ」
陽子は呆れたふうに答える。
「楽しいとか楽しくないとか、そういう問題じゃなくて。印象的だったってことを、わたしは言いたいだけ」





自分にとって大切なものを、誰でもない自分の手で壊す。
どんな大義名分があろうと、相手が当然憎まれるべき敵であろうと、そこに人がいる限り、彼らは陽子自身の民に外ならなかった。陽子が統べている国の民。
それを彼女は自らの手で屠る。
心を殺してまで、その手を汚す。
そんなことをする必要はないのだとは、言えなかった。そんな無責任な麒麟の言葉など、慰めにもならないだろう。
だから景麒はせめて、彼女を苛むすべてを取り払って綺麗にしてやりたかった。



自分の手が、景麒の手によって洗われていくのを陽子は他人事のように見ていた。
――そんなに丁寧に扱って欲しくない。
この手は、そんな扱われ方をされるべきものではないのだから。

何人――いったい何人――この手で殺めてきたか分からない。
あの小鳥が突然に命を絶たれたのと同じように、この手によって一瞬にして命を絶たれたものの数など、知れない。
その度に陽子は、感情をどこか遠い場所へ押しやってきた。そうすることで、慣れていくしかなかった。卑怯者にはなりたくないから、やめることはしない。
この手は、汚れている。
だから麒麟である景麒には、触れたくなかった。血や怨みに弱く、慈悲の心を持ち、虫ですら殺せないような存在の彼。
そんな彼の手に触れたら、自分の穢れが移ってしまいそうで怖かった。

指の一本一本から爪の隙間まで。景麒は注意深く丁寧に、洗い落としていく。
濁った水をいったん捨て、澄み切った水を新たに注ぐ。そこへ再度、陽子の手を浸からせ、すすいでやる。
時間をかけて清められた手を、用意しておいた真っ白な布で包み込み、拭う。
「……もう」
いいから、と景麒の手から逃れるように引きかけた腕を思わぬ強さで握られた。
身体が、傾ぐ。
何が起こったのか理解する頃には、陽子は完全に景麒に抱き竦まれていた。

混乱する思考に溺れそうになりながら、陽子は必死でもがいた。回される堅固で深い腕。抗えば抗うほど、陽子はその腕に抱き込まれてしまう。
「景麒……っ」
ほとんど請うようにあげた声も、虚しく中に舞うだけだった。
細く長い指が、赤い髪を梳く。
そうして、なおも抵抗しようとする陽子の耳元で、彼は宥めるように囁いた。



――大丈夫です。



閉じ込めた腕の中で身を捩る陽子に、景麒は囁く。それは根拠も何もない、けれども唯一たる確証の言葉だった。
細い肩が、一瞬だけ強張るように震える。徐々に陽子の身体から力が抜けていくのが、はっきりと分かった。

彼女は、美しく飾られるだけの標本などではない。けれど、その身や心は息を止めた標本物のように、自由を許されないものであることも確かだった。
この腕の中の小さな蝶が解放を求める時、何もかもを捨てて壊れゆく時、おそらく自分はそれを止めないのだろう。
共に壊れゆくか、あるいは、この手で愛おしむように壊してしまうか。
誰かに壊されるくらいなら、いっそ自分の手で、何よりも大切なものを――。





陽子はもう、全部を景麒に委ねていた。
その顔を広く大きな胸に埋め、清めたばかりの手は縋るように、景麒の袍を切ないほど力強く握りしめている。

脆く儚い少女の身体を景麒は掻き抱く。
今は、壊してしまわぬように。










※※※

タイトルは、作家である小川洋子さんのデビュー作からお借りしました。
作中で陽子が語るお話は、ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」です。
そして冒頭の詩は、新川和江さんの「わたしを束ねないで」という作品から、一部を引用させて頂きました。

20100620
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