Novel


□モニュメント
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飾り気のない小さな存在は、景麒の手の中でひっそりと慎ましげに収まっている。
棄ててくれと、陽子は確かに言った。
何故そんなことを言ったのか。
この髪飾りが陽子のもので尚且つあちらのものである以上、彼女は今までこれをずっと持ち続けていたということだ。壊れているにも関わらず。それを何故、今さらになって棄てようとするのか。
棄てておいて、とただ一言だけを告げたあの時の陽子の微笑が、景麒の脳裏に焼き付いて離れない。
あまりにも悲しげであったから。

――棄てられなかった。
たぶん、そういうことだ。
自分では棄てることができない。彼女はだから、景麒にこの髪飾りを委ねたのだ。





それから数日が経った。陽子は、ようやく手放した髪留めのことを、思い出したり気にかけたりすることも少なくなっていた。景麒が処分してくれただろうと思っていたし、それを後悔もしていない。

あれで良かったのだと納得しながら、陽子は何気なく棚の中をあさっていた。そこには衣裳や装飾品が納められている。
季節は夏に移り変わろうとしていて、平素、着用するものをそろそろ薄手の衣にしたいと思っていたのだ。衣更など女官が勝手にやってくれるが、それが必ずしも陽子の望ましいものになるとは限らなかったから、なるべく自分の好きなようにしたい。
良さそうなものがなかったら、女官たちに頼んで出してもらおう。
そんなことを考えていた。最近では、そうした融通も少しずつきくようになった。

そこに手をかけたのは気まぐれだった。
よく使用するものは、だいたい取り出しやすい位置に仕舞われている。屈まなければいけないような下段の抽斗は、そもそもほとんど手をつけたことがない。
忘れ去られたようなその場所を、何とはなしに開けてみると、ひんやりとした空気が肌に纏わり付いた。
暗い奥の方へ手を忍ばせてみる。指先が触れたものを掴み、引き寄せた。
姿を現したのは、薄い肩掛けのようなものだった。空を透かしたような浅葱色が涼しげで、控えめだが刺繍も施されている。
陽子はその織物に見入った。



――渡すべきものがある。
景麒が正寝を訪れてみると、陽子は棚の前にしゃがみ込み、何かを広げて見下ろしていた。それが何であるかを理解して、彼は目を見張り軽く息を飲んだ。
見覚えのあるそれは、かつて景麒の主であった女性が織ったものだった。
そんな彼の気配に気づいたのか、陽子は景麒を見上げながら、これを知っているのかと尋ねてくる。
「奥の方に仕舞われていて、誰も使ったことがないみたいなんだけど」
綺麗なのに、と彼女は呟いた。

「それは、先王が織ったものです……」
予王が、とは言わなかった。
驚いたふうに、陽子は再び景麒を見た。
ああ、と気まずそうに零す。
「そう……」
広げた布を少しだけ撫でると、陽子はとても丁寧な手つきでそれを折り畳み、もとあった場所へと戻した。
しん、と静寂が満ちる。
しばらくすると、しゃがみ込んだままの陽子が俯きながら、景麒、と呼んだ。
「お前は、……過去を忘れてしまいたいと、思うことがある?」
囁くように問いかけてくる。

胸を突かれた気がした。
どう答えるべきか、分からない。
「――すべてを忘れたいとは、思いません。ただ……」
景麒は、幾らか口篭る。
「わたしに、悪いと思ってる?」
立ち上がって景麒と向かい合うと、陽子は穏やかに聞いてきた。
小首を傾げて向けてくる双眸を見つめ返しながら景麒は、はい、と短く答える。
すると目の前の彼女は、ふわりと柔らかく笑って、いいんだよ、と言うのだった。

「忘れなくて、いいんだ。だって彼女は、確かにお前の半身だったのだから」
その声はどこまでも優しかった。
「覚えていて――彼女を。忘れては駄目だよ。たとえ世界が彼女を忘れてしまっても、お前だけは覚えていなければいけない。どんな過去があろうと、彼女がお前にとって唯一の人であったことに、変わりはないのだから……」
だから何もかもを、一切を、許すと。この少女は、そう言うのだ。

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