Novel


□Toes
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「そろそろ――」
政務に戻らなくていいのかと声をかけようとした瞬間、陽子が景麒に向かって盛大に水しぶきを飛ばしてきた。
突然のことに思わず顔をそらし、腕をかざしてかばう。主上、と声を上げて面を向けると、彼女の姿は既にそこにはなかった。
目をさ迷わせれば、木立へ向かって走り去っていく主の後ろ姿があった。
――素足のまま。

髪も顔も服も、中途半端に濡れたまま景麒はなかば茫然と立ち尽くしていた。
先程まで陽子がいた場所を見下ろす。短く溜め息をつき、そこに腰を降ろしてみた。傍らに放置された履は、まるで持ち主の帰りを待っているかのようだった。
陽子がしていたように、手を伸ばし指先で水の表面に触れる。確かに、ここは涼を求めるのに適したところかもしれない。
景麒はその場に座ったまま、自然のたてる音を聞くともなく聞いていた。





どのくらいそうしていたのか、短くはない時間が過ぎたような気がする。水を吸った髪や衣は、もうほとんど乾いていた。

草を踏む微かな気配がして、振り返ってみると、そこには主が立っている。
表情もなく黙って自分を見下ろしてくる彼女は、やがてゆっくりと口を開いた。
「……怒った?」
小さく聞いてくる。
陽子を見上げながら景麒はただ首を横に振り、いいえ、とだけ答えた。
「追いかけてこないから、呆れて放っておかれたのかと思った」
そう呟く陽子の顔には、どんな感情の色が含まれているのか判然としなかった。
視線を落とす。つま先が覗いていた。
裾から顔を出した形の良いそれは、どこか不安げにも、寂しげにも見えた。

「――履を、はいてください。そのままでは怪我をなさいます……」
そう言って側にある履を引き寄せて陽子の足元に置くと、景麒は立ち上がった。
意外にも陽子は素直に従ってきた。景麒の腕を、支えにして掴んでくる。
軽く裾を持ち上げる仕草や、たおやかで忍びやかなその足先が履の中へ仕舞われていくのを、慈愛にも似た思いで眺める。
腕に置かれた掌が、ひどく優しい。
その腕を――正確にはその衣を――突然、思いがけない強さで引っぱられた。

不意に力のかかった腕に促されて、景麒は上体を屈める恰好になった。
何事かと考える間もなく、陽子の身体が伸びてくる。つま先立って背伸びをした彼女の顔が、間近に迫るのが分かった。
頬に、柔らかなものが触れる。ごくわずか、なぞるように辿られたその灯る感覚。
湿り気を帯びた唇は、吐息を残して景麒の右頬からすぐに離れていった。
視線を交える前に、陽子は身を翻す。
簡単に捕えてしまえるほどの近さにあって、留め置くことを許さない彼女の自由さ。まるで指の間から零れ落ちる水のように、するりと景麒の身から逃れていく。
気がつけばもう、ここに陽子はいない。



さっきと同じように、景麒はやはりその場にひとり、取り残されていた。
遠く、赤い髪を揺らして軽やかに駆け去っていく主の背中を、ただ見つめる。

つい今しがた、頬の上を淡く掠めていった、一瞬の熱。肌を通して直に伝わってきた陽子の熱は、身体全体に拡散していく。
ごまかしようのない感覚。

傾きかけた陽射しの中、吹き付ける風が景麒自身の熱を少しもさらえないのは、決して夏の暑さのせいだけではなかった。










※※※

かまってちゃんな陽子で、ひとつ。
タイトルは、ノラ・ジョーンズの2ndアルバム『feels like home』に収められている楽曲の中から拝借しました。

20100801
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