Novel


□風立ちぬ
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日が暮れても、彼女の気配はその場所から少しも動かなかった。






眼下に広がる雲海を、陽子はただ眺めていた。つい先程までかろうじて西の空に張り付いていた太陽は、いつの間にか薄い光だけを残して沈んでしまっている。
じきに、あたりを夜が包み込むだろう。それでも陽子は戻る気にはならなかった。
打ち寄せる波の音に耳を澄ます。
目を閉じたまま、その潮騒に意識を傾けていると、まるで自分の身内から聞こえてくるような錯覚に囚われた。
呑まれて、しまいそうになる。いろいろな思いに。たくさんの感情に。



夕暮れ近くからずっと、陽子がひとつの場所に留まっていることに、景麒は気づいていた。麒麟である彼にとって、彼女の居場所など少し集中して王気を探れば、手に取るように分かってしまう。
その気配がどことなく揺らいでいることにも、だから景麒はすぐに気がついた。
ひとりになりたい時、主はどこか密やかな場所へふらりと出向くことがある。とくに急を要するものがない場合、景麒もそんな彼女を無理に連れ戻したりはしない。
だが、すっかり日の落ちてしまった今時分になってもまだ帰って来ないとなると、話は別だった。陽子の気配が、わずかに不安定な色を孕んでいるのも手伝って、景麒は自然、落ち着かなくなる。
薄闇の中へと、足を踏み出した。

どこにいるのかは、はじめから分かっていたから迷うことなどなかった。ただ真っ直ぐに、目指す人のもとへ向かう。
日が短くなった。暗い夜の帳が下ろされるのに、そう時間はかからない。
日中はまだ暑気が残るとはいえ太陽が隠されてしまえば、幾らか肌寒さを覚える。
そういう時期だった。
やがて宮城に奥まって位置する場所へ辿り着くと、はたして陽子の姿はあった。
膝を抱えて座り込み雲海を見やるその背中は、彼の足を止めさせるのに十分な、ある種の壁だった。いつも、こうした場所でこうした彼女の背中に出会う度、景麒はただ立ち尽くすことしかできない。
そういう自分が、とても呪わしかった。



「そんなとこにいつまでも突っ立ってないで、こっち来て座れば?」
陽子は雲海を見つめたまま、振り返ることなく背後に向かって話しかけてくる。
その声に促されるように景麒は前に進み出て、陽子の隣に腰を下ろした。
しばらく無言のまま、二人とも何も喋らなかった。陽子は瞬きもせず雲海に見入っている。それはさながら、彼女の内に潜めたものを波間へ映し込めるかのごとく。

「――何を、お考えですか」
沈黙に耐え兼ねたように、景麒がゆっくりと口を開いた。すると陽子は小さく笑って、いろいろなこと、と呟いた。
「わたしは時々、少しばかり考え込んでしまう癖があるようだ……」
――それは、よく知っている。
景麒は胸の中で答えた。
それから陽子はまた、少しの間、口を閉ざしてしまった。どうか深みに、はまってしまわぬよう。景麒はどこか穏やかでないその内心で、彼女の横顔に思った。


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