Novel


□風立ちぬ
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会話の糸口を見つけられず、それでも傍を離れる気にもなれずにいると、やがて陽子がおもむろに語り始めた。
「いろんなことを、思い出してた。いろんな人とか、たくさん、救ってあげられなかった人たち……」
波の音に、さらわれてしまいそうな声。
「たくさんの人が、無為に命を落としていった。……あの時、わたしがもう少ししっかりしていれば、きっと救ってやれた命もあっただろうにって思う。もう、今さらどうしようもないのだけれど……」
慶の片隅で、散ってしまった人たち。
幼い弟を形見に残して、死んでしまった優しい少女。陽子の目の前で息を引き取った少年――それは鈴の友人だった。
他にも、陽子の与り知らぬところで、多くの人たちが土に帰っていったのだ。

ぽつりぽつりと零す主の呟きを、景麒は何も言わずに黙って聞いていた。
「時々、あまりにも毎日が普通にすぎて、忘れてしまいそうになるんだ。そうしたことを。それが、とても怖い……」
忘却は生きることを楽にさせると、誰かが言っていたけれど――。
「人は、なぜ忘れてしまうのだろうね。つらかったことや、苦しかったり悲しかったりしたこと。それに伴う痛みとか、そういう感情ってとても大事なのに、無意識に蓋をしてしまうことがあるから」
記憶の彼方に追いやるように。
「忘れてしまえれば心は軽くなるだろうけれど、大切なものを失ってしまうような気がする。それが、とても怖いから。だから全部を覚えておきたいのに……」
過ぎる月日の中で風化し薄れゆくものを、どうしても止められないことがある。



「主上のお気持ちは……よく、分かるような気がいたします」
それまで静かに耳を傾けていた景麒は、ですが、と言い添えるように続けた。
「過去の思いに囚われすぎて、ご自身ばかりを責めるのは、どうか……」
おやめください、と声にはならない言葉が聞こえてくる。
分かっている、と陽子が答えた。
「お前は、本当に優しいよね……」
目を細めて微かな笑みを浮かべながら、陽子は隣の半身に向かって言った。
この麒麟は、いつだって自分を優しく容赦してくれるのだ。時に切なくなるほど。

寄り掛かってもいいか、と陽子が尋ねてきたので、景麒は頷いた。
少し遠慮がちに預けられた全身から、次第に力が失われていくのが分かる。柔らかくもたれてくるその身体は、軽かった。
そっと、肩を抱いた。



生きるということは、ただそれだけで、とても難しい。そのうえ永遠にも近い生を与えられ、果てしなく続く明日を見つめて途方に暮れることもあるだろう。
何事もなく流れる日々は、老いの知らぬ身体を置き去りにしていく。回りゆく世界で、ただ自分だけが時を止めたまま。
この細い肩に、小さな背に、なんと重たいものを背負わせてしまったことか。
罪悪感にも似た思いが景麒を襲う。
何もかもを捨てさせた。生まれ育った土地も、両親も。たとえそれが、かりそめにすぎなかったとしても、彼女を育んできたものであることに違いはない。
景麒はそれらのすべてを奪って、強引にこちらへ連れ戻し、まだ少女でしかないその身を玉座に縫い止めた。

玉座に就いてから、彼女が、帰りたいと漏らしたことは一度だってない。
かつて、望むのなら帰してやると言ったが、そんなものは、まったく無意味な口約束でしかないのを景麒は分かっていた。
回した腕に、力がこもる。
守ってやりたいと、せめて思う。
飽きるほどに永い生を、それでもなお生き続けようとするのは、守りたいと思うものがあるからだ。それは支えでもあった。





夜が、深くなっていく。
風はいつしか強さを増していた。

――寒くはありませんか。
――平気だよ。こうしていると、とてもあたたかいから……。

どこからか虫の鳴き声が響いてくる。秋が近くまで来ていることを告げていた。
またひとつ季節が終わり、そして始まる。とこしえに巡り来る四季は、寄り添う二人を残して通り過ぎていく。










※※※

タイトルは、たまたま知った堀辰雄さんという方の小説『風立ちぬ』から。
そしてこれは、堀さん自身が翻訳を手掛けた、詩人ポール・ヴァレリーの記したものの一節「風立ちぬ、いざ生きめやも」からの引用だそうです。
申し訳ないことに、管理人は堀さんの作品もヴァレリーの作品も読んだことがありません。要するに知ったかです。
大変有名だそうで、つくづく自分は無知なのだなぁ…と思いました。

20100904
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