Novel


□Call my name
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「お前ね、お前、わたしの名前、一度も呼んだことがないだろう」
ばしっ、と景麒の腕をぞんざいに叩きながら陽子が言った。軽く目を見開いて、酒で上気したその面差しを見つめる。
「……主を名前では呼べません」
「なんで」
矢継ぎ早に問い返され、景麒は言葉に詰まった。なんでも何も。主を気軽に名前で呼べるほど、景麒は砕けられないのだ。
「わたしが頼んでも、呼ばないつもりか。呼んで欲しいと言っても、駄目なの」
答えられなかった。
「……勘違いをしないでもらいたいんだけど。わたしは別に、命令しているわけじゃない。お願いしているんだ。景麒に、わたしが、お願いしているんだよ」
陽子は言い立てる。
「名前を呼ぶぐらい、何でもないだろう。どうして、そんなに重く考えるの。言っておくけどね、わたしは今すごく酔ってるんだ。酔ってなきゃ、こんなこと言わないからな。素面じゃ、絶対、言えない。今しか言えないから、頼んでるんだ」
息が、上がっていた。

確かに、傍目から見ても陽子は明らかに酔っている。普段はここまで饒舌ではない。頑固だが、こんな類のわがままは、今まで聞いたことがなかったように思う。
黙ったままでいると、やがて諦めたように、ふっと陽子が目を逸らした。
「そんなに嫌なら、いいよ。もう寝る。ごめん、莫迦なこと言って。おやすみ」
ぶっきらぼうにひとつ手を振ると、陽子は歩き出す。そもそも景麒の性格からいって名前で呼べなど、どだい無理な話だ。
酔った頭でやけに冷静なことを考えつつ、何だか本当に莫迦莫迦しくなってきた。
さっさと寝よう、と思った。



臥室に引き取ろうとする主のおぼつかない足元を見やって、景麒は手を伸ばした。
細い手首を掴んで引き寄せると、よたついたその身体は、転がるように景麒の中へすっぽりと収まってしまった。
囲われた腕の中で、苦しいとでも言うように陽子は小さく身じろぐ。そうして再び景麒を真っ直ぐに見上げてきた。
「……なに」
疑いも持たずにぼんやりと呟く。
――この警戒の無さは、何だ。
逃げようともしない。この人は本当に酔っているのだと、改めてそう思った。
もともと彼女はどこか無防備だった。
獣としての本性から来るのか、それとも己の性分なのかは分からないが、景麒はどんな時でも隙を見せられない。
そんな彼にとって陽子の無防備さは、時に困惑の種となり苛立ちの原因ともなる。

抱き込んだその身体は、酒に火照らされて体温が高い。少し充血している大きな目が、零れ落ちてしまいそうだった。
少女の全身から、酒の匂いが甘くゆるく立ち上ってくる。深く息を吸い込むと、こちらまで酔ってしまいそうだった。
熱くなった頬に、手の甲を滑らせる。落ちかかる赤い髪を耳にかけてやった。
「……一度しか言いません。ですから、お聞き逃しのないよう――」
そう告げると、景麒はゆっくりと身を屈めた。陽子の形の良い耳元へ、触れてしまいそうなほどに顔を近づける。
そしてその唇が、彼女の名を象った。





――陽子。





低く囁かれて、微かに肩を震わせた。
息を呑んで、景麒の衣服を固く握りしめ、その胸元に強く顔を押し付けた。
しがみついてくる陽子の背を、景麒はあやすように撫でた。
名前を呼べない、本当の理由は、何かが崩れてしまいそうだからだ。自身の中で必死に保とうとしている、何か。
その何かを、景麒はたぶん知っているが、まだ気づかないふりをする。
だから彼は、明日からはもう二度と口にすることのないであろう、その神聖な名を、胸の中で繰り返し唱え続けた。



大きな掌で背中をさすられながら陽子は、一度で充分だ、と思った。
もう、いい。一度だけで、いい。
彼の口が音を立てて自分の名を呼ぶ時、心のずっと奥にある小さな芯が、どうしようもなく震えてしまうから。
――だから、もういい。
この優しい音は、自分の胸だけに残そう。そっと、大切に仕舞っておこう。
抱擁の中で、陽子はひっそりと誓った。










※※※

タイトルは何の捻りもなく、まんま。
ちょっと、いろいろ言い訳とかしたいので、それはまた雑記にて。

20100919
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