Novel


□裸足で散歩
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昨日から降り続いていた雨は、明け方近くにやんだらしい。ほのかな滴の名残を湛え、晴れ渡る空は鮮やかに澄んでいた。
――散歩しよう。
朝早く仁重殿にひょっこりと顔を覗かせた陽子は来るやいなや、そう誘ってきた。



「散歩、ですか……?こんな時間に」
意表を突かれた景麒は、どことなく戸惑いを含んだ調子で訊き返した。
「こんな時間だから。雨もやんだし、空気がきれいで気持ちがいいよ、きっと。たまには、いいじゃないか。行こう?」
そんなふうに屈託なく笑顔で言われてしまえば、景麒には断れるはずもなかった。
「早くしないと、おいてくよ」
こちらの返答も待たずに陽子は言うと、軽く手招きをして、さっさと堂室を出て行ってしまう。溜め息を落としつつも、結局つられるように景麒はその背を追った。

普段から朝は早いのだから、休みの日くらいゆっくりと寝ていればいいものを、陽子はそれを絶対にしたことがない。
多少遅くに目覚めることはあっても、だいたいいつも決まった頃合いに起き出す。
――休みだからって、あまりのんびりしていると何だか勿体なく感じてしまう。
いつだったか彼女はそう呟いていた。
景麒自身も、休日に一切何もしないでいるというのは難しかった。妙なところで、この主従はよく似ている。
そうは言っても、散歩を嗜むような趣味など、景麒にはもちろん無いのだが。
しかし、ほがらかに笑った幼い顔を眺めるのを実際の目的としながら、陽子の気まぐれに付き合うのも悪くはない。
相変わらず振り返りもせずに先を行く主の後ろ姿を見つめて、景麒は思った。



庭院に降り立った二人は、とりとめもない会話を交わしながら、ただふらふらと気ままに歩き回った。前を歩いていた陽子は、今は景麒の傍らにあった。
太陽はあたたかな橙色を帯び穏やかに陽射しを注いでいる。それは朝焼けであるのに、まるで夕焼けのようにも見えた。
雲ひとつない真っ青な空に、とてもよく映えていて、とても眩しかった。
空気は新しい朝のひっそりとした色を纏い、清らかで透き通っている。
確かに気持ちがいい。
何か、一日の始まりを称えるような、しんとした輝きに満ちている気がした。

雨の余韻が足元の草に残り、裾を冷たく湿らせている。不快ではなかった。
ふと陽子に目を移すと、いつの間にか彼女は履を脱いで素足になっていた。
「――主上。また、そうやって……」
景麒は呆れながら軽く諌めた。
「だって、この方が解放的で気分がいいんだ。大丈夫、怪我なんてしないよ」
そう言って、陽子は濡れた草の感触を楽しむように歩き出した。
注意などしても無駄なことは分かりきっていたが、それでも一応、汚れてしまいますよ、とだけ声をかけてみる。
案の定、後で拭けばいい、とにべもない答えが返ってくるだけだった。



裸足のままの散歩はしばらく続いた。
あろうことか主は、景麒も履脱げば、などと言い出す。彼は、ご遠慮致します、とそれは丁寧に断りを述べたのだった。
突然、陽子が景麒の前に立って腕を掴んできた。何かと思えば、景麒の足の上に自分の足を置いて乗っかってくる。
「……わたしの足を、履がわりにされても困るのですが」
言えば、そう?と彼女は面白そうに景麒を見上げてくる。ええ、と答えた。
足の上に乗っているせいで、彼女の頭はいつもより少し高い位置にあった。
陽子はそのまま腕を景麒の背中に回す。だから景麒も陽子の背中を包んだ。
それから彼は、ゆったりと身体を折って陽子の耳の後ろへと唇を寄せた。
抗いの気配は、無かった。



――耳の後ろに口づけると。
陽子が秘密めいた囁きを漏らす。
「失くしものが見つかるって」
鼻にかかったような吐息まじりの声音が、優しく首のあたりを撫でていった。
景麒は未だ陽子の耳元へ唇を寄せたまま、本当ですか、と問いかけた。
そんな話はついぞ聞いたことがない。蓬莱の言い伝えか何かだろうか。
すると陽子は、充分なくらい間を取ってから慎重にその小さな口を動かした。

――うそ。

その言葉はやはり、そっと秘め事を打ち明けるかのように、どこか甘く。
何となく思いついてでたらめに言ってみただけだ、と陽子は笑いながら告げる。
それを受けて景麒も薄く笑んだ。
そうして今度は、彼女の柔らかくひんやりとした耳朶を甘噛みした。獣が、懐いた主人にそうするように――。
陽子は、くすぐったい、と身を捩りながら、本当に可笑しそうに、けらけらと肩を揺すって笑うのだった。



雨上がりの静かな朝の秋空に、笑い声は明るくいつまでも谺していた。










※※※

タイトルは、1967年公開のアメリカ映画から失敬させて頂きました。

20101003

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