Novel


□密やかな結晶
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衣服を掻き合わせた手を胸元で強く握りしめながら、陽子は彼女に向かって心の中で声にならない叫びを上げた。
呑み込んだ言葉が、身体の奥へ鉛のように重く底知れずどんよりと沈んでいく。
苦しいほどの沈黙が流れた。
このまま部屋へ引きとろうか。そう思った時、存外に優しげな声が降ってきた。
「心配は、いらぬようじゃ……」

一瞬の、停止。陽子はゆっくりと玉葉の顔を仰いだ。そこにはやはり、先程と同じく柔和な面差しがあるだけだった。
彼女の言葉をどう捉えたものか分からず、ただその顔を瞬きも忘れて見入った。
「――主従の仲睦まじきは、よきこと。案じることなど何もありはせぬ」
玉葉がどういう意味を以ってそんなことを言ったのか、陽子には理解できない。
けれど、何か胸の奥に澱んでいたしこりのような塊が、融けていくのを感じた。
許された気がした。
「遅くに失礼をした。早う休まれよ」
静かに告げると、玉葉は背を向けてその場を辞した。陽子ひとりを残して。

深く考え事をするのが難しい。奇妙な心地で、陽子は再び臥牀へ潜り込んだ。
夜気によって幾分冷やされた身体は衾の温もりを吸って、気持ちがよかった。
小さくまるくなって横になりながら、玉葉の言葉を、胸の中で反芻してみる。
まるで呪文か何かのように。
それは陽子を柔らかく守るのだった。
やがて訪れた夢の淵。陽子は二度目の眠りに誘われ、そろりと瞼を落とした。



翌朝目を覚ます頃に女仙がやって来た。
彼女はにっこりと笑んで、おはようございます、と陽子に向かって言う。
「お起きになりますか?朝餉の準備が出来ております。景台輔もお待ちですよ」
景麒が、と口の中で呟きながら、陽子は仕度をし女仙の後に続いて歩いた。
少し離れた部屋に通されると、そこには既に食事の用意がされている。
朝餉の香りの中に景麒の姿があった。おはよう、と小声で挨拶を交わす。それだけのことが、なぜか妙にくすぐったかった。
女仙が椅子を引いて席を勧めてくれたので、陽子はおとなしくそれに従う。
さして大きくはない卓に二人分の朝食。景麒と陽子は向かい合うように座った。
湯呑みに茶を注ぎ、それぞれに差し出すと、女仙は礼をとって退出していった。

おろしたままの長い髪を軽く束ねる。
「いただきます……」
ぽつんと呟くと、陽子は箸を手に取り、目の前の食事をおもむろに口へ運んだ。
とくに会話をするでもなかったが、気詰まりを感じる雰囲気ではなく、むしろ安堵すら覚えるような空間が漂っていた。
そういえば、と陽子は思う。こうやって景麒と二人だけで一緒に食事を摂ったことは、今まで無かったかもしれない。
彼がものを食べるところを見るのは、とても貴重な気がした。食事をする手つきも、無駄な動きひとつなく景麒らしい。
彼の様子に見とれていた陽子は、いつの間にか箸を持つ手を止めていた。
「……何か?」
景麒が不思議そうに訊いてきたので陽子は慌てて、何でもない、と首を振った。
そうして、また箸を動かし始める。

何てことのない、ありふれた食卓だった。それが陽子にとっては、この上なく幸せな風景に思えた。ただ純粋に、嬉しい。
ほんのりと、あたたかなものが宿る。
気づかれぬように、陽子は俯いてこっそりと朱く色づく口唇を上げた。





食事を済ませ、何に縛られることなく他愛もない時間が過ぎていく。
充分に休息を取ってから、二人は外へ出て歩き始めた。景麒の使令たちは遁甲をやめ、悠々とその姿を地上に現していた。
どこか行きたい場所はと問われても、結局のところ陽子は蓬山の地理をまったく知らないので、景麒に連れられるまま進む。
おまけに、ここは迷路のように道が入り組んでいる。はぐれたりすれば陽子は確実に迷子だ。そんな場所でも、景麒の足は一時たりとも、よどみなく動いていた。
きっと、彼にとっては庭みたいなものなのだろう。ただ、歩調はさりげなく陽子に合わせてくれているようだった。
しばらく行くと開けた場所に出た。
野原のようだった。日当たりがよく草花は風に揺られ、小さな泉があった。
見たことのない変わった鳥が広い空に飛びかっていて、陽子は首をめぐらす。


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