Novel


□夜が昼と出会うとき
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――おかえり。
彼女のその言葉を聞くのが好きだった。



州候としての政務を兼ねる景麒が、瑛州に降りることは少なくなかった。
或いは何かの折に下界へ降りたり、ほぼ有り得ないが事情によっては国境を跨ぐ。
数日間、数週間。いずれにせよ、景麒は主を残して王宮を空けることになる。
仕事を終えて戻れば、陽子は笑顔で己を迎え、そして必ず言ってくれるのだ。
おかえり、と。
自分に向けられる彼女の言葉は、景麒にとって唯一の寄る辺を与えてくれた。

はじめて、そう声をかけられたのがいつのことだったか、もう忘れた。
覚えているのはただ、今まで知り得たことのない優しさと温もり、幸福だった。
自分を迎え入れてくれる人。帰ってきたのだと実感できる場所。懐かしくさえ思えるような、あたたかい何か。
たぶん陽子からすれば、何気なく零したひと言にすぎなかったのだと思う。
日常の一部として存在し、ごく普通に当たり前に交わされるもの。だがそれは、特別な意味を伴って彼の耳へ届いた。
そうして彼女がいつも景麒にもたらしてくれるものは、形のない家、であった。





帰還した景麒と偶然にも鉢合わせした陽子は、あっ、とひとつ声を漏らした。
少し驚いたように見上げてくる鮮やかな翠の瞳は、すぐに柔らかな色を帯びる。
花開くように口元を綻ばせて、言った。
「おかえり」
戻ってたんだ。知らなかった。もっと遅いのかと思ってたから。
そう言いながら、彼女はとても自然な笑顔で半身の帰りを出迎えたのだった。
思いもかけない主の歓迎に、景麒はなかば硬直したように少女の顔を凝視した。
見下ろす小さな面差しが、ひどく懐かしく愛おしいものに思えた。光の宿されるような感覚に、全身の力がほぐれていく。
知らず景麒は目元をゆるめた。

陽子は目を見開く。仏頂面が常の麒麟が、めずらしく柔和な顔つきをしたから。
「……笑った」
どこか独り言めいて、陽子は呟いた。
彼女の指摘に、景麒自身でさえ驚いたらしかった。意図した笑みではなかったのだ。自分でも微笑ったことに気づかなかった。
景麒は決まり悪そうに幾分うろたえながら目を泳がす。意識しないところで身内から解放されたものに、動揺していた。
けれど陽子はそんな景麒の様子にはとくに構うこともなく、ただ嬉しそうに、再びその顔に目映い笑みを咲かせた。
見慣れているはずの表情だった。
――この少女は、こんなふうに綺麗に微笑む人だったのか。
まるではじめて目にするもののように、その笑顔を見つめて、景麒は思った。

よく分からないが、何となく陽子は景麒と話をしたがっているようだった。
たんに街の様子を知りたいだけなのかもしれない。それでも、いろいろと訊いてくる主に答えを返すのは嫌ではなかった。
久しぶりに聞く彼女の声音が、耳に心地よい。例えようのない安堵感を覚えた。
ずっとその声に寄り添っていたかった。
景麒、と彼女の唇がそう音にする度に、無機質だった自分の呼び名が特別なものへと為りかわるような気がした。





王と離れることは寂しいし、傍にあれば嬉しい。それは麒麟にとって当たり前の感情だった。当然、景麒にとっても。
だが、それだけではなかった。
陽子が満たしてくれるものは、麒麟としての喜びとは違うもっと別の何かだった。
帰る場所があるということ。己の帰りを待っていてくれる人がいるということ。
物理的なものではない。目に見える形として存在しているものでもなかった。
ただひとり、陽子だけが授け得ることのできる、胸の奥を温めるほのかな灯火。
戻りたい、と思える。帰らなければ、と思える。それは実はとても単純明解で、とても幸せなことだった。
分からなかった。陽子がいなければ。



彼女は今日も景麒を迎える。
降り注ぐ陽光のごとく、零れるような明るい笑顔を浮かべて歩み寄ってくる。
そして告げるのだ。
この世で最もあたたかく優しい言葉を。

――おかえり、景麒。










※※※

タイトルは某海外ドラマから。
原題 When Night Meets Day.
詳しいことは、また雑記でつらつらと。

20101120

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