Novel


□心と手
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間が悪いときというのは誰にでもある。
避けて通りたい場面に居合わせてしまったり、自分の存在は都合が悪かったり。
とにかく得することなど何もない。
だけど間が悪かったのだ。そんなのは、どうすることもできなかった。



陽子にしたって聞きたくて聞いたわけではなかった。ただ歩いていただけだ。
そうしたら数人の囁き声がした。
この角を曲がったら官吏だか誰かがいて、そして何事かを話し合っているのだろうと思った。別段おかしなことでもない。
けれど陽子は、どうしてもその角を曲がることができなかった。届いてくる会話が、どこか声を潜めた調子だったから。
何となく、聞かない方がいいのだろうと直感で分かった。こういう類の会話が何を意味するかは、よく知っている。
陰口だ。それも、おそらく陽子自身の。
これ以上は進めない。だが来た道を戻ることもまた、できなかった。
よせばいいのにと思う。聞かなければいいのにと。彼らが口にするひやかしに傷つくことぐらい、目に見えているのだから。
それなのに、まるで足の裏が床に張り付いてでもいるみたいに、そこから一歩も動くことができないのだった。

息を詰めて壁にぴったりと寄り添って、ひと言も漏らすまいと耳を澄ます。
聞こえてくるのは、やはり予想どおりのものだった。自分に放たれる言葉の槍。
官吏たちの厭味や皮肉など、これまでだって聞かされている。登極して間もなかった頃は、それこそ数え切れないほど。
これみよがしに懐達を呟かれ、所詮は女王だ小娘だ、と冷笑を浴びせられた。
露骨な溜息を幾つも吐かれた。
けれど正直そんなものに構っていられるほど陽子も暇ではなかったし、いちいち気にしていたのじゃ身がもたない。
好きに言えばいい。くだらないたわ言だと切り捨てていくのが、最善だった。
それでも、まったく気持ちが不安定にならない、というわけではなかった。
いっそ目を閉じて耳を塞いでしまいたいと、何度思ったか知れない。
だが、そんな態度をとれば、さらに侮蔑の対象となるであろうことは明らかだ。それぐらいは陽子だって理解していた。



気配を消して壁に身を寄せながら、陽子は彼らの会話が終わるのを待った。
こっちに来られたら困るな。そんなことを考える。やがて遠ざかっていく声が完全に途絶えるのを確認して、息をついた。
しばらく陽子はその場に蹲った。そうすれば自分を守れるような気がしたからだ。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせて立ち上がる。何も考えない。何も感じない。
早く自室に戻りたかった。
できれば今は誰とも会いたくない。たぶん、うまく笑えないだろうから。
無心で回廊を歩き続ける。
周囲などほとんど見えていなかった。
向こうから人が来るとか、そんなことに気を配る余裕もなかったし、陽子の視界には何も映り込んではいなかった。
気づいたときには長身の影が目前に迫っていて、危うくぶつかりそうになった。

流れる金糸のような髪が視野に映り、だから景麒なのだと分かる。
「……ごめん」
短く言うと陽子はそのまま黙り込んだ。
顔を上げて景麒だと確かめることはできなかった。頑なに、彼のものである黒い衣装に覆われた胸元だけを凝視する。
その不自然な様子に気づいているのかいないのか、景麒は一拍遅れるふうにゆっくり、いえ、とだけ答えたのだった。
それから二人はただ沈黙の中にあった。
陽子はひたすら立ち尽くしていた。
じゃあ、と声をかけて景麒の横を通り過ぎるぐらい造作もないことだった。そうしたかったが、何故だかできない。
上背のある彼の身体が、越えられない壁のように思えてならなかった。



当然、景麒は主の様子がおかしいことを見通していた。何かぎこちない。
いつもなら陽子は背の高い彼を見上げるようにしてくるが、今はそれがなかった。
何よりいちばん奇妙なのは、彼女が無表情だということだった。
一般的に考えても、陽子はごく普通に感情を表現する方だと思う。嬉しければ素直に喜ぶし、腹が立てば素直に怒る。
景麒自身と違いその顔には常に――ただひとつ悲哀だけを隠したがるが――自然な感情の起伏が浮かんでいるはずだった。
そういう人だ。
ところが今の彼女には見上げてくる瞳も笑顔もなければ、ましてや不機嫌な様相すら窺うこともできない。本当に何もない。
表情のない陽子は居心地が悪かった。
だから景麒は口を開いた。できるだけ丁寧に、しかし無駄のないように。


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