Novel


□心と手
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「……何か、ございましたか」
決して沈黙を邪魔することのない声音で、景麒がそう訊いてきた。
「別に……。何も、ないけど……」
説得力に欠けるほど口篭る。
実を言えば、景麒がただ自分を素通りしてくれたらいいのにと陽子は願っていた。
けれども彼の、余計な感情のこもらない静かな声に触れて身体の芯がぐらついた。
ふつり、と糸の切れるような微かな鈍い音を、耳の奥で聞いた気がした。
平静さを掻き乱すようなものが、ゆるゆると足音もなく這い上ってきた。
絶対に泣きたくなんかないのに、泣きそうになっている自分がいる。
駄目だ、と思う。それは絶対に駄目だ。
もし今ここで崩れてしまったら、たぶんこの麒麟は助けてくれるだろう。
そしてそれに甘えてしまえば、自分はこの先ずっと、それに縋らずにはいられなくなるという確信が陽子にはあった。
それだけは避けたい。
絶対に何としてでも避けたいのに。
でも、もう喉が痛いほど震えていた。

――主上?
またひとつ、低い声が落ちる。
目の前が歪んだ。瞼を閉じると涙が滲んで零れた。どんな努力も意味はなかった。
一度流れ出したものは止められない。
後から後から溢れ出し、涙を拭う手の甲をどうしようもなく濡らした。
恥ずかしい――。こんな、情けなくてみっともない姿を見られたくはなかった。
だけど、もう何もかもどうでもいい。
今まで自分なりに、がむしゃらにやってきたつもりだった。落ち込むことがあっても、どうにか奮い立たせてきた。
けどそれで、どうなったというのだろう。自分は一体いつ認められるのだろう。
女王だとか胎果だとか、それを払拭できる日なんて本当に訪れるのだろうか。
報われる日は来るのだろうか。
何も分からない。どうでもいい。
ひとりで頑張るのは疲れてしまった。本当はずっと、いつも泣きたかった。
羞恥も外聞もかなぐり捨てて、ただ心の底から泣いてしまいたかった。

無垢な頃に帰りたい。
泣くしか手立てのなかった頃に。
何も知らない真っさらな、清らかなままでいられた生まれたばかりの頃。
世界のすべてが母親だけだったあの頃。
もう二度と戻れない。

陽子は顔を覆う。搾り出すような細い声が、断続的に指の間から零れた。
不意に頭上に温もりを感じた。景麒の掌が頭に置かれているのだと分かった。
――どうなされました。
陽子はただ首を横に振る。何でもない。そう言いたかったが、すべて涙で潰れた。
抑揚を欠いた彼の言葉は、もはや陽子にとって慰撫でしかなかった。
そんなに甘やかさないで欲しいと思うのに、景麒の声も手も、全部が優しかった。
その手が背中に下ろされた。
慎重に、柔らかく引き寄せるように包まれて、陽子は景麒の胸に額を当てる。
促すように背を撫でられて、限界まで怺えていた鳴咽が漏れた。
もういいのだと言われている気がした。



甘えたかった。縋りたかった。頼りたかった。泣きたかった。傍にいて欲しい。
本当はいつも、迷ったときには助けて欲しい。支えて欲しいと思ってる。
自分に差し向けられる手を待ってた。救い出してくれる手を求めてた。
でもそんなものは、きっと彼にとっては負担にしかならないだろうから。
だから蓋をして気づかないふりをした。
それでも今、背を撫でてくれるあたたかな感触が、ずっと欲していたものなのだと、これ以上ないほど思い知らされる。
声もなく悲鳴をあげる心が、彼の手に触れられるのを、いつも待っていた。





子どものように泣きじゃくる主を、景麒は何も言わず宥め続けた。
少女の薄い肩は、それに見合わない重責のせいで震えていた。真面目な彼女はすべてをひとりで背負い込み、崩れた。
友人にも、仲間にも、半身である麒麟にも、誰にも頼ろうとしない孤独。
彼女は心根の強い人であったかもしれないけれど、真実とても弱い人だった。
玉座に就いて以来、この人の涙を目の当たりにしたことは一度もない。
少なくとも景麒の前では、彼女は絶対に泣いたりしたことなどなかった。
たが、その裏で流される多くの涙の存在に、いつの頃からか景麒は気づいていた。



午前の朝議で顔を合わせるとき、陽子はたまに目を赤くさせていることがあった。
どうかしたのかと問えば彼女はただ曖昧に笑って、ちょっと調べ物をしていて寝不足なだけだ、と答える。
だから、そうなのだろうと思っていた。
けれどもある時、気づいてしまった。そうではないと。ふと視線が交わった瞬間、景麒は唐突に疑いもなく、それを悟った。
違う。調べ物などしていたのではない。
この人は泣いていたのだ。夜の間中、ずっと。広い牀榻の中にひとりで。


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