Novel


□心と手
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知らなかった。この女王が、人知れず泣く夜を抱いていたことなど。
声を殺して涙を流し、たったひとりきりで夜明けを待っていたことなど。
何も知らなかった。

気づいてしまったからといって、しかし景麒は陽子に手を差し伸べてやることができなかった。いつも器用になれない。
あからさまに悲しみを体現してきた嘗ての人と、そして無理にでも抑えようとする今の人と、結局そのどちらに対しても景麒はうまく立ち回ることができないのだ。
押し込められた彼女の孤独を、どう掬ってやればいいのか分からなかった。
ただ素知らぬふりを装うことしか、できることはないのだった。
本当に単純に寝不足なだけのこともあったが、そうでないときはすぐに分かる。
目を合わせようとしないからだ。
赤らんで腫れた目を隠そうとするように俯きがちになる。不意に目が合っても、すぐに逸らされてしまう。
だから分かるのだ。泣いていたのだと。
一度、そういうときの陽子と口論になったことがあった。



問題になっている案件に関して、陽子からは常になく投げやりな意見しか出てこなかった。あまりにも極端な態度だった。
真剣に考えてくださいと軽く諌めれば、真剣だと答える。本気でそう思っているのかと問えば、本気だと返す。
にっちもさっちもいかない問答に正直、景麒も苛立っていたことは確かだった。
だから、つい口に出してしまったのだ。
挑発めいたことを。
「でしたら、きちんと、わたしの目を見ておっしゃっていただけますか」

陽子の身体が強張るのが分かった。
身を刺すような緊張が伝わってくる。
ゆっくりと顔を上げた陽子は、その日ようやく景麒と目を合わせた。
何も言わない。唇をかたく引き結び、ほとんど睨みつけるように見つめてくる彼女はしかし、とても傷ついた瞳をしていた。
しばらくして、ふいと顔を背けた陽子は無言のまま景麒のもとから立ち去った。
後悔しかなかった。
違うのだ。あんな顔をさせたいわけではない。彼女を傷つけたいわけではない。
謝罪をしなければと思う。だが意志とは裏腹に身体が動かなかった。
それなのに、陽子は謝ってきたのだ。

夜になって仁重殿を訪れた彼女は、景麒に向かって告げた。
「今日はごめん……わたしが悪かった」
少し自棄になっていたのだ。考えなしだった。景麒の言い分が正しい――。
そう言って、陽子は真摯なほど真っ直ぐに景麒の目を見据えて謝るのだった。
その瞳は、やはり赤かった。
こちらこそ申し訳ありませんでした、と景麒はそれだけしか言えなかった。
陽子は安堵したように小さく笑い、おやすみ、と囁いて堂室を出ていく。
その手を掴んで、引き止めたかった。
何か悩んでいるのか。思い詰めることでもあるのか。そう訊いてみたかったけれど、どうしてもできない。
――彼女は今夜も泣くのだろうか。
仄暗い闇の中、遠くなっていく少女の背中を見つめながら景麒は思った。





腕の中で、陽子は震えながら咽び泣いている。生温い滴が胸を濡らした。
爪を立てるように衣を握り、背を丸めて景麒に取り縋ってくるその姿は、彼女をよりいっそう弱く脆いものにしていた。
この小さな身体に、どれだけの痛みが押し刻まれているのだろうか。
彼女の苦しみや悲しみを理解できるなどと、そんなおこがましいことは思わない。
ただ、陽子がつらいと感じるときには、傍にいてやりたかった。
器用でないことは知っている。言葉が足りないのだということも。
だから自分にできることは、黙って傍にいてやるぐらいしかないのだと。

麒麟が不器用ならば、この主も同じく不器用であった。甘え方を知らない。
彼女のひたむきにすぎる姿勢は、時に窮屈さを感じさせる。それは結果として、陽子自身をも縛り付けるのだった。
人は、どんなときでも強く生きていけるほど、丈夫に作られてはいない。
心は折れるだろうし、くじけもする。
ひとりで抱え込もうとする彼女の癖は、もしかしたら景麒の――或いは彼に付随する過去のせいなのかもしれなかった。
それを悔やんだ。
彼は陽子に教えてやりたかった。
耐える必要など何ひとつありはしない。
泣きたければ泣けばいい。そうしてまた、いつものように笑ってくれるのなら。





泣いておしまいなさい。
甘えておしまいなさい。
小さい子。どうか強がらないで。
あなたの手が、血に汚れ、苦しみに傷つき、悲しみに濡れるのならば、己のこの綺麗なままの手は、せめてあなたのために。
この手が、あなたのよすがとなるよう。



Hearts and Hands.










※※※

タイトルは、O・ヘンリーの短編小説からさりげなく拝借しました。

20101211
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