Novel


□抱月
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いまさらに
なにをかおもわん
うちなびき
こころはきみに
よりにしものを


吹きすさぶ風に、流した深紅の髪を泳がせながら陽子は歌うように囁いた。
聞き慣れぬ調子に、それは何か、と言葉にしない疑問を景麒は眼差しに込める。
すると、それを受け取った彼女はやんわりと微笑を浮かべて答えた。
――あちらの、ずっと昔に生きた人が残した歌だ。ずうっと昔のね……。






***


時折、すべてを失った日の記憶が蘇る。
刻々と翳りを増していく自身の命が唐突に息を吹き返し、同時にそれまで彼の唯一であったものが無に還った瞬間。
すべてが一瞬のうちに消滅したあの瞬間に、引きずり戻されることがある。
それは、今が穏やかであればあるほど、景麒を脅かすのだった。

あの日、景麒は文字通り己の半身を根こそぎもぎ取られたのだ。
肉体的な痛みから解放されても、身体の内側に穿たれた空洞が彼を苦しめた。
失道の病から立ち直った麒麟は数少ないという。ならば景麒は、希少なこの身の上に感謝すべきなのかもしれない。
だが主とともにその生を終えるのと、主を失い麒麟だけが生きながらえるのと、果たしてどちらが恵まれているのか。
もはや彼には知る術はなかった。
胸に巣食う虚無感は、新たな王を抱くことで取り除かれた。同じ女王であることの懸念も、彼女は払拭してくれた。
それでも、己が中心の喪失という恐怖は忘れがたく景麒の身に染みついていた。

陽子が優れた王として成長していくほど、彼女の存在が景麒の心を多く占める。
だからこそ、それが消え去ったときの苦しみを考えずにはいられなかった。
ふとした合間に、癒えぬ古傷が疼くように、否応なく景麒を襲ってくる。
根づいてしまった傷痕に、またさらなる傷が刻まれることを極度に恐れる。
経験が、慣れを生むとは限らない。
この身が覚えたのはただ、一度味わった苦痛に対する警戒心だけであった。
かけがえのない人を失う痛みに耐えることは、もう彼にはできそうもなかった。



鉛のように重い身体を引きずって歩く。今、景麒を苛むものは何もないはずだ。
安定へと足を踏み入れたこの国の、早くも最期を考えるなど莫迦げている。
思って、無駄な杞憂を振り払った。
彼は、その日も通常の自分を保っているつもりだった。いつもと何ら変わりない一日を過ごし、終えるつもりだった。
景麒は気づかない。
朝議を終えて、それぞれの執務に戻るために陽子と別れたとき。
誰よりも近くにある彼女が、いつにも増して口数の少ない麒麟へ、もの言いたげな視線を寄こしたことに。
些細な変化すら見逃せないほど、二人はもうずっと互いを許していることに。
半身を必要としているのは、もはや景麒だけではないのだということに。
彼は気づかなかった。

眠りの訪れない深夜、景麒のもとへ前触れもなく陽子がやって来た。
こんな遅く、そのうえ護衛もつけずに来たらしいことに景麒は少なからず難色を示さずにはいられなかった。
それを感じ取ったのか、陽子はどことなく申し訳なさそうに口を開く。
「少し、話がしたくて……」
迷惑だっただろうか、と上目遣いに問うてくる主に景麒は些か虚を衝かれた。
「いいえ、そういうわけでは……」
言って彼は、冷えますから、とまだ火を落としていない堂内へ少女を招き入れた。
椅子を勧めながら、熱めの茶を淹れて卓に差し出すと自分も腰を下ろした。
湯浴みをしてきた後なのか陽子の髪は湿っていて、その色を濃くしていた。
話がしたいと言った彼女は、だが何かを切り出す様子もなく、景麒もまた口を噤んで湯呑みの中をただ見つめていた。





「――どうした?」
突然、労るふうに声をかけてきた陽子を、景麒は何のことか計りかねて見返す。
「元気が、ないみたいだから……」
今日ずっと、何だか今にも死んでしまいそうな顔をしていたよ――。
幾分、揶揄いを含みつつ、だが気遣わしげに彼女は言った。景麒は目を見張る。
「そう……でしょうか」
顔を逸らして戸惑いがちに答えると、陽子は至って素直に、うん、と頷いた。
「わたしが落ち込んでいたらすぐに気づいてくれるのに、自分のことはちっとも分かっていないんだね、お前……」
陽子はどこか寂しく笑う。
ぎこちなく身を硬くする彼の姿は、まるで薄氷のような危うさを孕んでいた。
触れたら簡単に崩れてしまいそうで、だから手を伸ばすことも躊躇われた。


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