Novel


□抱月
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主上――。
長いこと、ずっと押し黙っていた景麒の口が重たく開いて、陽子を呼んだ。
思いがけない囁きが漏れた。
「あなたは……幸せですか」
顔を俯けたまま、ほとんど恐れていると言ってもいいほどの声音で訊いてくる。
わずかな沈黙が耳に痛かった。
陽子は、自分を見ようとしない彼の、壊れてしまいそうな端整な横顔を眺める。
満ちた静寂に、そっと言葉を置いた。
「幸せだよ」
その答えは明確で迷いがなかった。
「とても、幸せだよ。たぶん、景麒が思っているよりずっと、わたしは幸せだ」
しばらくして景麒はゆっくりと顔を上げ、陽子と視線を通わす。そして、すぐにまた長い睫毛を伏せてしまった。
そんな彼の様子をじっと見守っていた陽子は、ああ、と胸の中で嘆息した。
立ち上がって景麒の傍近くに寄った。
それから彼の薄い金の鬣を指に絡める。景麒は微かに震えたようだった。

「不安なの……?」
陽子は静かに問いかける。
返事がなくとも肯定だと知っていた。切なく笑って景麒の頭を優しく引き寄せる。
彼を完全に自分の胸元へ閉じ込めた。
ほんの少しだけ、景麒はたじろぐように身動きしたが、抗いの気配はない。
力を抜き、重心を陽子に預けてきた。
腕にある存在は、おとなしくその身を委ね、されるがままになっている。
「景麒が安らかになれるのなら、ずっとこうしていてあげるのに」
肌を撫でる冷たい鬣に左の頬を押し付けて、陽子はぽつりと呟いた。
悲しい麒麟だと思う。
嘗て一時にすべてを失った。半身の消滅と引きかえに与えられた、二度目の生。
本当なら陽子も、自分が駄目になってしまったときには、この麒麟を残すつもりだった。それが国にとって最善だから。
けれど、もう無理かもしれない。
こんなに哀れで愛おしい半身を、ひとりきりで残していくなんて、できない。
景麒も陽子も、結局は互いに帰属していなければ生きも死にもできなかった。



「大丈夫。何も、心配しなくていいよ。わたしの心は、もうずっと前から、お前のものなんだから……」
だから置いていったりしないよ。
陽子は言い含めるように告げる。
景麒は、柔らかな場所に顔を埋めたまま聞いていた。少女の身体はあたたかく心地いい。湯上がりの香りが鼻腔を掠めた。
目を閉じ、意識は遠く陽子を追う。
体温、湿度、感触、匂い、鼓動――。
彼女という存在を形成しているそれらを、深く身内の中に取り込んだ。
そうしながら彼は、いつか陽子が語ってくれた歌を、耳の奥に思い出していた。
――今さら何を思うことがありましょう。うち靡いて心もあなたへと寄り添ったことでございますから……。



やがて主の胸元からおもむろに顔を離すと、景麒は彼女の唇を求めた。
だから陽子は与える。温度の低い彼の口元に、自らの紅唇をゆるく押し当てた。
回された景麒の腕が背中を強く掻き抱き、陽子は答えるように彼の肩に縋った。
与えては求め、求めては与え、奪い合っては返し合うことを夢中で繰り返す。
いつしか深まる行為に没頭しながら景麒は席を立ち、彼女の全身を抱き上げた。
陽子は臥牀に降ろされるまで、彼の瞼にも頬にも首筋にも口づけを落としていく。
気まぐれに、甘く歯を立てた。


――夜が来る。
あらゆる秘密が紐解かれ、互いを互いに向けて包み隠すことなく明け渡す夜が。
寄り添うことを願った二つの魂が、重なり合う静謐な夜――。






今更に 何をか念はむ うち靡き
情は君に 縁りにしものを

安倍女郎
(『万葉集』 四−五○五)










※※※

使用した和歌は、良さそうなものを適当に探して見つけたものです。
相変わらず、詳しいことは何も知らない感じでございます。
御礼ということで一応フリーにしておきますが、とくに報告は必要ありません。
期限もありません。
ご自由にお楽しみ頂ければ嬉しいです。
一万打ありがとうございました。
たくさんの感謝をこめて。

20110108
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