Novel


□冬の風景
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「少しの間、街に降りたいんだけど」
控えめに切り出したのは陽子だった。

あらかたの政務が片付き一段落した午後、頃合を見計らって話を持ち出す。
やや上目遣いに、まるでこちらの機嫌でも窺うかのようにして告げる主へ、景麒はちらりと表情のない視線を送る。
――少しとは、どのくらいの期間か。
彼の目は、そう語っていた。
陽子は慎重に口を開く。
「……どれぐらいなら許容できる?」
探り探りといったふうに問うてくる。
しばし双方の視線は絡み合ったまま。陽子は身構えて半身の出方を待った。
沈黙の駆け引きは、だが長くは続かなかった。景麒が諦めたように溜息をつく。
「どうぞ、主上の気の済むまで」
彼はあっさり承諾を出したのだった。

あまりの呆気なさに、陽子は自分の耳を疑う。聞き間違いかとすら思った。
「……具合でも悪いのか」
体調が優れず諫める気にもなれないのだろうか。それとも罠か何かだろうか。疑りと懸念の混じる表情で陽子は訊いた。
そんな主に、景麒は遠慮もなく眉根を寄せて冷ややかな一瞥をくれる。
「ご不満ならば撤回いたしますが」
いかにも憮然とした声が降ってきた。
陽子は慌てて首を横に振る。それでも、やはりまだ信じられないようだった。
「本当に、いいの?」
一応とばかりに念を押してみると、景麒は陽子を見下ろして言った。
「わたしがお止めしたところで、聞かないでしょう。あなたは……」
呆れがちに呟かれ陽子は言葉に詰まる。
実際、彼女は景麒を説き伏せるために、あれこれと口実を練っていたのだ。
それを使う手間が省けたのはいいが、大よそ戦闘準備にあった陽子は拍子抜けしてしまった。何となく手持ち無沙汰になる。
「……どうも、ありがとう」
若干の動揺を滲ませつつぎこちなく言うと景麒は、必ず冗祐を憑けてお出かけください、と釘を刺して退出していった。



最大の難関からお許しが貰えたとあれば陽子に迷っている理由などない。
翌日には荷物をまとめて宮城を発った。条件通り冗祐を憑け、班渠を借り受けた。
使令の主である当の景麒は、ご無事のお帰りを――とだけ述べて陽子を送り出す。
班渠の背に跨がり飛翔する少女の姿はやがて小さな点となり見えなくなった。
幻影めいた赤い残像をその目に取り込むと、景麒はようやく踵を返した。
王気が遠ざかっていく。
慕わしい人の気配や居場所が分かりすぎるのは時として不便だ、と彼は思う。
その人の生死さえ離れた場所でも認知できてしまう能力など、むしろ無いほうが良いのではないかとすら感じる。
しかし結局のところ、景麒にはそれが無ければ駄目なのだ。
己が麒麟であることをまざまざと自覚しながら、彼は何度目かの溜息を零した。






陽子はひとまず堯天に降りていた。
初日は周辺の様子を眺めて回ったが、実はその後どうするかは何も決めてない。
それで気の向くままにひたすら東へと向かった。暦の上ではもう春だが冬の名残は強く、下界はやはり寒い。
だが晴れていれば太陽の光はあたたかく、歩けば冷えた身体もほぐれる。
昔に放浪していた頃の癖なのか、陽子は歩くことがわりと好きだった。
履物さえちゃんとしていれば幾らでも歩き続けることができる。何日かは自分の足で移動し日が暮れたら宿に泊まった。
人目の無いところでは班渠に頼ったりもした。疲れれば適当に休み、また歩く。
途中で気分を変えてみたくなり乗り合いの馬車を使った。一定の速度で走る車内から、ゆるやかに流れる景色を見送る。
同乗していた年かさの女と、他愛のない会話を交わす。彼女は別れるとき陽子に飴をくれた。甘くて美味しかった。



馬車を降りてから、陽子はただ道なりに真っ直ぐ足を動かし続けた。
たくさんの人とすれ違った。
静寂と寒気に覆われた街は、しかし閉ざされてはいない。目を向ければ街道には背を丸めて行き交う人々がいる。
寒さをしのぐように肩を寄せあって歩く老夫婦。白い息を吐きながら、高く澄んだ声をあげて無邪気に走り回る子どもたち。
路上で美しい歌声を響かせている若い娘がいた。いつまでも耳に残る心地よい旋律を、陽子も小さく口ずさんだ。
あらゆる場所に息づく民の暮らしを垣間見ることを今、許されている。
それが嬉しかった。

ずっと先へ行くと賑やかな街からは外れ、人通りも疎らになってくる。
潮の香りがした。歩を進めるごとにその匂いは強くなり、やがて海が見えた。
敷き詰められたように広がる砂浜の白さが、日射しの照り返しを受けて眩しい。
陽子は浜辺に降り立ち、ゆっくり歩いた。足の裏が軽く沈み込む感触を楽しむ。
砂の上に幾つも自分の足跡を残した。


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