Novel


□冬の風景
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冬の終わりが近づく海は、少しだけ荒れていた。潮風が肌を冷たくなぞる。
波打際からは離れたところで、陽子は腰を下ろして膝を抱えた。細かい白砂は水気を含み湿った柔らかさが手に馴染んだ。
遠くの青を視野に映す。
空と海の境目が曖昧になる部分、二つが溶けて重なる線をぼんやりと眺めた。
この海のずっと果てに、陽子の生まれた故郷がある。もう戻ることはない幻の世界。
混沌とした境界線の中でその世界もまた混沌と存在し、そして消えていく。
今、陽子自身が確かに存在しえる場所はあちらではなくこちらの世界だった。



「おねえちゃん」
不意に横から声をかけられた。自分のことだと気づかず、一拍遅れて振り向く。
四つか五つぐらいの少女が立っていた。
少女の顔は座っている陽子よりも少し高い位置にあるので見上げる恰好になる。
彼女は小首を傾げて再び口を開いた。
「……おにいちゃん?」
問いかけられ、陽子は笑って答える。
「――おねえちゃん」
おにいちゃんでもいいけどね、別に――。そんなことを内心で独りごちた。

何してるの、と訊くと少女は小さな掌を広げてみせた。貝殻だった。あげる、と彼女は陽子に向かってそれを差し出す。
拾い集めていたのだろうか。
「くれるの?」
言うと、少女は大きく頷いた。
――ありがとう。ひと言ずつ丁寧にお礼を伝えて受け取ると、目の前の子どもは擽ったげに含羞んだ笑みを見せた。
陽子は目を細めて腕を伸ばし、少女の頬にそっと触れる。子どもらしくふっくらとしていて凍えた手にあたたかかった。
産毛から生え変わったばかりの艶やかな髪は、細くてさらさらしている。
そういえば、小さな子どもとこんなふうに触れ合うのはすごく久しぶりだ。
そう思いながら、陽子はこの幼い少女のすべてを愛おしく感じたのだった。
やがて少女は母親らしい女に呼ばれて駆け去っていく。途中、立ち止まって手を振る仕草をしたので陽子も手を振った。



いつの間にか太陽は、ぐっと西に傾いていた。それで日はまだ短いのだと気づく。
風はさらに冷たくなっていた。
忘れかけていた波の音が、思い出したように鼓膜の振動を蘇らせた。
「景麒……」
陽子は、ぽつりと半身の名を呟く。それは本当にごく自然に漏れた言葉だった。
特別彼のことを想ったり意識したからではなく、たとえば呼吸をするように、瞬きをするように、匂いをかぐように。
そうしたことと何ら変わりのない自然さで陽子の唇から零れ落ちた。

すっかり暗くなって、陽子は宿を探さねばならない。眠るだけで良かったので最悪どこかに野宿でもいいと考えていた。
けれど班渠が、それだけは絶対にやめさせるよう台輔から厳しく言付かっております、などと答えるものだから。
仕方なく陽子はほっつき歩いて、ようやく見つけた一軒の寂れた宿屋に泊まった。
特に食欲もなく、くたびれていた。
簡単に身体の汚れを落とし、すぐに臥牀の中へもぐり込んだ。古びたそれは固くて、横になると骨が軋んで痛い。
それでも眠りはすぐに訪れた。



夜半に人の気配で目が覚めた。――覚めた、ような気がした。
枕元に浅く腰をかける人影があって、その人は陽子を見つめている。
闇の中でもその金色の髪は浮かび上がるように鮮明で、だから景麒だと分かった。
顔はよく見えないが、彼であると陽子には不思議なほどはっきりと理解できた。

――景麒?
微かな声は夜陰に吸い取られた。彼は手を伸ばし陽子の髪を優しく何度も梳く。
――なぜ、ここにいるの?
――あなたに呼ばれたので……。
――わたしに?
彼の頷く気配がした。
――そう……。そう、確かに呼んだのかもしれない。景麒を……。
これは夢だろうか。
薄ぼんやりとした曖昧な意識の奥で、ただ髪を撫で付ける掌の温もりだけがひどく心地よかった。
――お願いが、あるのだけど。一緒に眠って欲しい。ここに、一緒に。何だか寂しいんだ。だから……。

すべてを言い終える前に、景麒の身体は音もなく臥牀の中へ滑り込んできた。
そうして彼は陽子の全身を柔らかく、とても柔らかくその腕に閉じ込めたのだ。
慰めるように背中を撫でられた。
陽子はまるで自分が小さな子どもにでもなったみたいな気分で、目の前にある景麒の胸に顔を埋め瞼を下ろす。
懐かしい匂いがした。
その香りは陽子を安堵させ、同時に堪らなく切なくもさせるのだった。


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