Novel


□花筺
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誰もいなくなり、しんと静まり返った中で陽子は脱力したまま椅子に座っていた。
少し前まで蘭桂と話していたのを、遠い記憶のように思い返す。彼の声と言葉が、耳に離れがたく谺していた。





「僕はここを出ようと思います」
春の日にふさわしく晴れやかな表情でそう語る青年を、陽子は凝視した。
「……出るって、この王宮を?」
目を見開き独り言めいて漏らす少女に蘭桂は、そう、となおも笑顔で頷く。
景麒は何も言わず二人を見ていた。
「――それはつまり、下界で暮らす、ということか?なんでまた、突然……」
困惑を滲ませた陽子の顔を見下ろしながら、蘭桂はゆったりと首を横に振る。
「突然じゃ、ないんだ。本当は、ずっと前から考えていたことで」
なかなか言い出せなかったけれど、と話す彼の顔が少し伏せがちになった。

街に降りて働く。数えで二十になれば公田を貰えるから、それまでは住まいを与えてくれる場所にいる。
給田で独立して落ち着いたら、少しずつ自分の望むように暮らしていきたい。
蘭桂はひとつひとつ丁寧に説明をした。簡単にはいかないだろうけれどそれが自分自身に納得のいく答えだから、と。

全部を話して聞かせてくれた青年の姿を、陽子は眩しそうに見上げていた。
彼の発する言葉のすべてが真実であり真剣なものであることは、よく理解していた。だから陽子には何も言えない。
引き止めることはできない。己のすべきことはそうではないと、陽子は目を閉じる。
「――分かった。蘭桂の、したいようにしてくれればいいよ」
それを望んだのは他ならぬ陽子だ。生きたいように生きて欲しい。そう願って、彼を仙籍に入れることはしなかった。
「自分に正直な生き方をしてくれるなら、わたしも嬉しいから」
少し悲しげに、それでも微笑んで言ってくれた陽子に蘭桂は安堵の息をついた。

「いつ頃、出ていくつもりなんだ?」
陽子はなるべく明るい声で訊く。
蘭桂は考え込むふうに口を動かした。
「一月後には、出ようと思う……」
真っ直ぐな眼差しを目の前の少女に向けて、彼は静かに告げた。
そう、とだけ陽子は答えた。景麒は最後まで、口を挟むことはしなかった。





「あと、一月……」
背凭れに重い身体を預けて陽子はぼんやりと呟く。改めて口にすると、それは急に現実味を帯びて胸に響いた。
彼の選び取った道を否定はしない。
だが、その道へと背中を押してやることに複雑な感情が伴うなど想像もしなかった。
どうしてだろう。何となく、彼はずっとここにいるような気がしていた。
例えば官吏になってこの王宮に勤めるとか、そんなふうに陽子と繋がった場所にいてくれるような気がしていたのだ。
けれど実はそれは陽子が望んだ蘭桂の道であって、彼自身の望む道ではなかった。
彼には彼の進むべき道が、きちんと見えていた。陽子が気づかなかっただけで。

書卓の上に頬を押し付ける。
ひんやりと冷たく堅い感触がした。
「大人に、なったのか……」
自分で道を選べるほどの大人に。そんな当たり前のことが、とても寂しい。
あどけない笑顔で駆け寄って来て、陽子の腕をとる小さな手はもうない。
陽子の知る子どもだった頃の「桂桂」は、もうどこにもいないのだ。
いつの間にか、彼は成長してしまった。








出立を一月後に控えて蘭桂は房間の片付けを始め、荷物をまとめていた。
陽子はといえば暇を見つけては彼を訪ね、手伝おうか、といちいちに声をかける。
すると蘭桂は苦笑しながら、大丈夫だよと答えるのだが、決して陽子を追い出そうとしたりはしなかった。
おまけに考えることは皆同じようで、虎嘯やら祥瓊やら鈴やら、多くの者が手伝いと称しては彼の房間に集まっていた。
結局のところ、そうやって誰もかれもが蘭桂との別れを惜しんでいる。
手伝うふりを装って皆で集まり話し込む。そんな時間を何日も繰り返した。



ゆるやかに、しかし一瞬一瞬は目まぐるしい速さで過ぎ去っていく。別れの日まで、もう半月もなかった。
蘭桂のことを思えば鬱々ばかりしてはいられないのだが、日毎に整理されていく房間や荷を仕分けている彼の姿を目にする度、押し迫ったものを感じてしまう。
無意識に溜息が出るのを止められず、陽子はのろのろと回廊を歩いていた。
俯きがちでいると、のんびりした声が降ってきた。顔を上げると体格のしっかりした男が立っている。虎嘯だった。



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