Novel


□花筺
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「元気ねえな。蘭桂のことか」
彼は陽子の姿を認めるなり、そう口を開いた。陽子は力ない微笑を浮かべながら、まあね、と言って肩を竦める。
大柄な体躯の虎嘯は、その見た目らしく鷹揚で快活だった。彼の朗らかな様子を見ていると訳なく安心する。
「そう暗い顔すんなって。お前がそんなんじゃ、蘭桂も浮かばれないぞ」
言いながら彼は無骨な掌で、ぐしゃぐしゃと陽子の頭を思いきり撫でた。
眉をしかめて自分の大僕を見上げる。
「……そういう虎嘯だって、寂しいんじゃないのか?」
彼が意外に寂しがりやだと知っている。居を構えて共に過ごした弟分のような存在がいなくなれば、心細いだろう。
虎嘯は複雑そうな表情になった。
「そりゃあな……。でも蘭桂が自分で決めたことだ。せっかくの門出なんだから、祝ってやりたいだろ」
悟すような言葉に陽子は、うん、と返事をするしかできなかった。



堂室に戻るか戻るまいか迷っていた。
仕事をしたところで手につかないことなど分かってはいたが、かといって何もしないでいると気が紛れない。
忙しい時期ではないので急かしてやるべきことも大して無いのだが。
ぐずぐずしていると、ちょうど蘭桂が通りがかりに声をかけてきた。
「何してるの、こんなところで。時間があるなら少し話していかない?」
そう言ってくれたので、陽子は頷く。
こぢんまりとした路亭へ移動し、質素な円卓を間に二人は向かい合って腰かけた。

見渡した園林はとても長閑な光景で、適度な陽気がうっすらと眠気を誘う。
「――荷物、片付きそう?」
陽子は訊いた。
「うん。大丈夫かな。持っていくものはだいたいまとめたし……」
まだ細かいものが少し残ってるけどね、と蘭桂は軽く笑いながら言った。そうか、と陽子もまた薄く笑んだ。
下に降りてから住む場所に当てはあるのだろうか。ずっと気にかかっていた陽子は、それとなく窺ってみる。
すると彼は、実は、とほんの少しだけ言いにくそうに口ごもった。
「遠甫が仲介してくれたんだ……。自分で何とかするって言ったんだけど、いいところがあるからって」
眉を下げながら話す蘭桂だったが、なるほど、と陽子は納得したし安心した。
それから二人は何となく口を閉ざした。





「――最近、よく思い出すんだ」
唐突に切り出した蘭桂に、陽子は何のことか計りかねて首を傾げる。
彼は柔らかい笑みを刻んで答えた。
「姉さんのこと……」
陽子は、はっと蘭桂を見つめ返し短く息を呑んだ。そうしてすぐに顔を伏せる。
「……わたしも、思い出す」
明るく弟思いな少女の姿が目に浮かぶ。わずかな間しか一緒に過ごせなかった人。救ってあげられなかった人。
蘭桂は彼女に似て、利発で優しく心根の真っ直ぐな頼もしい青年に成長した。
ああ、と陽子は胸の中で息をつく。彼は姉の生きた年月を越えようとしていた。
そんなにも長い日々が流れていた。
静かな午後は時が経つのを忘れるほど穏やかだが、確実に前へ進んでいる。
そのことを告げるかのように、遠いどこかで自然がざわめいている気がした。



そういえば、と蘭桂は声をあげる。
「台輔から借りていた本があるんだ」
意外な話題に陽子は目を丸くした。
「――景麒から?」
そう、と青年は首を縦に振った。

ずっと以前に書庫をうろついていた時、棚の上にぽつんとある本が目についた。
手にとってぱらぱらと拾い読みしてみると、各国の古い歴史やら風土やらが細かく書き記されたものであった。
それが景麒のものだと分かったのは、彼が書庫へ取りに戻って来たからだ。
たぶん置き忘れていったのだろう。
興味深げに書物を捲っている蘭桂の姿を見た景麒は、読みたければ持ち帰っても構わないと貸し与えてくれた。
――いいんですか?
思わず問うと彼は頷く。自分にはもう必要ないし、ほとんど覚えているからと。
――ありがとうございます。
嬉しそうに蘭桂は礼を述べた。



景麒を苦手とする人は恐らく少なくなかったが、蘭桂は彼と話をしたり一緒にいたりすることが嫌いではなかった。
王や麒麟や、そういった存在の尊さに対してまだ疎かった幼い頃から彼を知っていたせいかもしれない。
確かに無愛想で無口だったが、景麒は蘭桂にいろんなことを教えてくれたと思う。
自分から喋ったりすることはなかったが、こちらから話せば返してくれる。
子供なりに不思議に感じたことを口に出して訊けば、景麒は彼特有の抑揚のない声音で淡々と説明してくれた。
感情のこもらないその話し方は、けれど冷たいと思わせることはなかった。
余計な言葉を持たない彼の答えは蘭桂の頭にすんなり沁み込んでくる。
だから景麒と会話を交わすのは、むしろ好ましいことだったのだ。



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