Novel


□花筺
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そう語ると陽子は、めずらしい、と声を立てて笑い含みに言った。
「景麒と話をしたがる人なんて、普通いないよ。景麒のこと好きなんだ」
蘭桂もまた笑いながら、そうみたいだね、と答えた。そして首を傾ける。
「陽子だって、そうでしょう?」
――陽子も台輔のことが好きでしょう。
彼は優しく、そう問いかけてきた。
陽子は微笑んだまま蘭桂の顔を見つめた。それから目を伏せて、うん、と頷く。
「好きだよ。すごく……」
好きだ、と呟く声は今にも消えてしまいそうだった。俯いた顔が寂しげだった。
蘭桂はゆっくりと続ける。
「――陽子は、時々とても臆病になってしまうんだね。きっと、台輔も……」
陽子は押し黙っている。

「陽子も台輔も、僕にとって命の恩人なんだ。だから、二人が幸せでいてくれないと、僕はとても悲しいよ……」
囁くように漏らすと陽子は再び、うん、とまるで子供がするみたいに頷いた。
そうして卓に突っ伏すように、細い両腕の中へ顔を埋めてしまった。
蘭桂はただ、そのあまりにも頼りなく丸まった背中を見下ろす。この人はこんなに小さかっただろうか、と思う。
彼女はいつも蘭桂の目に強く気高い女性だった。だが今ここにいる人は、か弱く可哀想な少女でしかなかった。
見上げる対象だった人は、いつの間にか見下ろす対象となっていた。
自分は成長してしまったのだ。
微かに震えて見える背を支えてやりたいと思った。しかし、その役目が己ではないことを蘭桂は知っている。
だから彼は席を立った。もう行くね――と少女の肩に残して。



景麒を好きだと、あの青年のように何の躊躇いも気後れもなく言えたらどんなにいいだろう、と陽子は思う。
なぜ素直な気持ちを口にするだけのことが、こんなにも心苦しいのだろう。
蘭桂が羨ましいと、思った。








路亭に誂えられた椅子に腰かけ、陽子は気の抜けたふうに園林を眺めている。
景麒は少し離れて主の姿を遠目に映していた。何を見るでもなく、あらぬ方を向いた彼女の顔は景麒からは窺えない。
時折吹いてくる風に髪が揺らされて、まろい頬の輪郭が見え隠れするだけだった。

――陽子が、台輔のことを好きだって、言っていました。
先程、回廊ですれ違った若い青年の声が脳裏に蘇ってくる。
――台輔のことが、すごく好きだって。それで泣いていました。……たぶん。
彼はただ誠実なままに伝える。自分の背丈よりもわずかに低いぐらいの青年を、景麒は黙って見下ろした。
――陽子の傍に行ってあげてください。
そうとだけ告げると、彼は浅くお辞儀をして景麒の横を通り過ぎていった。



ぴくりともせずに座っている陽子を、景麒は長いこと見つめていた。
彼女のこうした無防備な姿に出会うのは初めてではない。もう何度目だろう。
隙ばかりの単なる少女に戻ってしまう人に気づく度、景麒は盗み見でもしているかのような後ろめたさを覚える。
だが目を離すことはできないのだった。
景麒はそっと息を吐いて、やおらに足を踏み出す。無意識になるべく気配を消して近づこうとする己がいた。
しかし微かな足音と衣擦れの音が耳に届くと陽子はすぐこちらを振り返る。
景麒の姿を認めた彼女は目を見張った。

半身の訪れに些か驚いた陽子は、立ち上がって何やら気まずげに景麒を見やる。
「……あの、一応、今日の仕事はもう終わってるんだけど」
ぼそぼそと彼女は呟く。
どうやら執務室にいない自分を景麒が探して連れ戻しに来たと思ったらしい。
小言を貰わぬよう言い訳めいたことを尻搾みに話す主に、幾らか胸を撫で下ろした景麒は軽く笑みを漏らした。
「そういうことでは、ありません」
え、と顔を上げた陽子は目の前の半身を、やはり驚いたように見返した。不思議そうに細い首を少しだけ傾げる。
視線を交えた先の少女の瞳が、赤い気がした。睫毛には滴が残り頬には流れ落ちた透明な筋が、見える気がした。

自然な仕草で、だから彼は陽子の顔に手を伸ばす。涙の痕を辿るように指先がその頬を掠め、そして放れた。
陽子は瞬く。何も言わずに景麒を見上げていると、彼はゆっくりと口を開いた。



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