Novel


□短編集
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休息





――玄君の言っていることは分かったな?
金髪の少年は訊いてきた。
──俺はこのまま奏へこれを伝えに行く。挨拶もしなければならないし。陽子は戻って尚隆からの指示を待て。
──……分かった。



目眩を覚えるような蓬廬宮での一件を終え、陽子は蓬山から帰還した。
その後も堯天にいる氾王との書状のやり取りに追われ、気づけば既に日没である。
足取り重く自室に戻った。
溜まった仕事を片さなければいけない。翌日には氾王が訪ねてくる。その前に少しでも進めておきたかった。
だが身体がひどくだるかった。
眉間に皺を寄せ、こめかみのあたりを指で押さえながら陽子は榻に深く腰かける。
軽い頭痛と耳鳴りがしていた。
目をつむってやり過ごそうとしたが楽にならないので、仮眠をとるつもりで陽子は牀榻へ向かった。

崩れるように臥牀へ横になる。
この居心地の悪い疲労が、実は蓬山で感じた奇妙な違和感のせいであることに、陽子は気づいていた。
──薄気味の悪い違和感。
あの、言葉にできない感覚が、どうしても陽子の思考を邪魔するのだった。
どうにかしてそれを振り払い、眠りにつこうと身を縮めて瞼を硬く閉じる。
休んで頭がすっきりしたら、雑事を片付けよう。陽子は言い聞かせた。



景麒は正寝を訪れていた。
堂室に足を踏み入れるが陽子の姿はなく、それで彼は迷わず臥室へ向かう。
牀榻の中に、彼女はいた。
まるで胎児のように小さく身体を丸めて、陽子は衾も掛けずに寝入っていた。
敷布に顔のなかばまでを埋め、疲れきったように眠っている。薄暗いせいだろうか、その顔が幾らか蒼褪めて見えた。
穏やかというよりも寧ろ息をしていないのではと思うほど静かな寝顔に、景麒は訳もなく焦燥感にかられた。
蹲って眠る姿が寒さを訴えているようにも見えて、だから彼は衾を掛けてやろうと布を引っ張る。

掛布を引き寄せようとした時、陽子がわずかに身じろいで薄く目を開いた。
「──景麒?」
半身の存在に驚いた陽子は、慌てて身を起こしながら彼の名を呟く。
「いたのか。すまない、全然気がつかなかった……」
起こしてくれてよかったのに、と疲れた笑みを浮かべて彼女は言った。
景麒はそれには答えない。

「……顔色が、よくありません」
無表情のまま短く述べる半身を、陽子は瞬いて見上げた。
「そうかな。でも──」
平気だから、と臥牀を降りようとした少女の肩を、景麒は掴んで引き止める。
「駄目です。休んでください」
きつい口調に陽子は内心怯んだ。
「いや、でも仕事……」
言いさすが景麒は相変わらず表情もなく、ただ視線だけで陽子を押し留める。
いつになく神経質なその様子に、陽子も諦めて溜息をついた。
「分かったよ……。その代わり、景麒も休め。お前だって疲れてるんだから」
彼はやはり何も答えなかった。



おとなしく横になったものの、景麒が出ていく気配はなかった。
大丈夫だから退がれと言っても彼は、はいと返事をしたきり突っ立ったままだ。
見かねた陽子は口を開く。
「せめて、座ったら」
傍に置かれた椅子を指差して言う。
景麒は無言でそれを引き、浅く腰かけた。そうしてじっと俯いている。
もしかして彼なりに心配してくれているのだろうか、と思った。

伏せられた端整な容貌を眺めながら、この麒麟は──と陽子は考える。
この麒麟は、蓬山で生まれ育った正真正銘の、頭から爪先まで生粋の麒麟なのだ。
そんな彼を前に、あの地で薄気味悪い違和感を胸に抱えてしまった自分。
何だか後ろめたかった。彼を裏切っているような気分だった。
「……迷惑ばかりかけているね」
陽子はぽつんと零す。ようやく顔を上げた景麒と目があった。
「今回のことで色々わがまま言ったし。でも、間違ったことはしてないと思う……」
泰麒を救いたい──。

景麒は黙ってその紫色の瞳を陽子に向けていた。それから口を開く。
「──主上を信じております」
それに、と目の前の麒麟は続ける。
「わがままにも、もう慣れましたから」
陽子は目を見張る。くすりと笑った。
「そっか……」
景麒も少しだけ微笑んだように思った。



景麒、と少女は彼を呼ぶ。
「お願いだ。お前も休んで……」
懇願するように囁いた。
少し躊躇いながら景麒は、宥めるように彼女の手に自分のそれを重ねた。
「あなたが眠ったあとに休むと、お約束いたします」
そう告げると陽子の顔に安堵の色が広がった。柔らかく手を握り返してくる。
「もう、目を閉じるから……」
呟いて、ゆっくりと翠の瞳を瞼の裏に隠した。やがて微かな寝息が聞こえてくる。

彼女との約束を守るためには、ここを出なくてはいけない。
それでも景麒は動けなかった。
もう少しだけ、この頼りなくあたたかな手に触れていたいと、願った。


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