Novel


□素粒子
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人の心が軋みをあげる瞬間は、たぶんほとんど唐突に始まるのだと思う。
予兆めいたものがあるとするなら――強いて言うなれば、何もないことだ。
波風のない穏やかな日常。変異すら見当たらない穏やかさこそが、予兆だった。
嵐の前の静けさを思わせるような。
何食わぬ顔でそれはやって来る。無遠慮に、けたたましい音で扉を叩く。



景麒が主の姿を目にした時、彼女の心はもう既に破綻していた。
何が理由でとか何がきっかけでとか、そんなことを考えるのは意味もなければ、彼女を救う手立てにもならない。
床の上には打ち捨てられたように、衣裳やら書物やらが散らばっていた。
卓上が妙にきれいなのは、そこに置かれていたものすべてを浚ったからだろう。
湯呑みは転がり落ち、中の水が飛び散っていた。水滴は弧を描くように疎らな点線となって床を濡らす。

乱された空間に佇み、陽子は冷たく凍てついた表情で黙々と手を動かしていた。
開け放たれた抽斗に腕を突っ込み、鈍い音を響かせて彼女は細かな何かをばらばらと無造作に床へ落としていく。
よく見ればそれらは皆、装飾具のようだった。元は豪奢な品々であったのだろうものたちの、残骸だった。
花鈿、櫛、玉佩、首飾り、耳墜。
そうしたものたちの無惨な成れの果てが、そこらじゅうに転がっていた。

何をしているのか、と景麒は訊いた。
それは例えば、遊んでいる子供に何をしているか問いかけるふうな調子だった。
目の前で起きている状況をありのまま受け止めて、彼は淡々と口を開く。
対する陽子も、淡々と返事をする。
俯けた顔を上げもせず手を止めることもなく、ただ、ひと言だけ簡潔に述べた。
――壊してる。








ささくれだった感情が剥き出しなると、それは止めようもなく狂暴になる。
今まで何ともなかったことが、一気に押し寄せて雪崩れ込んでくるのだ。
ごく自然なまま水を注がれる器には、さりげなさを装った液体が徐々に満たされ、ついに縁ぎりぎりまで辿り着く。
表面張力を伴いかろうじて収まっていた水は結局、耐え切れずに溢れ出した。
零れたものは戻らない。
だから、どうしようもない。持て余したどうしようもない気持ちの矛先は、時に自分の半身へと向かうのだった。



陽子は景麒を大切に思っているし、彼のことを好きで、とても愛している。
でも、愛おしくて大切なのに時々、憎たらしくて堪らなくなることもあった。

実は陽子は、心の奥深いところで、景麒が与えてくれる愛情を疑っている。
何故なら、彼は麒麟だからだ。
麒麟は王を慕う生き物だ。例え暗愚であったとしても、主への思慕の念は抗えないものであるに違いない。
陽子はだから、景麒の好意を素直に信じることができなくなる。
彼は麒麟であり、ただ王である自分を慕っているだけで、その想いを愛情という形にすり替えているのではないか。
生まれた時から備わっている王への慕情を、個人が対象に向けて抱く愛情であると勘違いしているのではないか。
疑心はたちまち膨れ上がるのだった。

そもそも陽子は、自分が彼にとって二人目であるという現状に、どこかしら複雑な思いを感じていた。
一人目――つまり嘗て景麒の主であり半身であった彼女のことを考えると、無意識に卑屈になってしまう。
大丈夫。気にしてない。そんな善良ぶったことを言っておきながら、実際はまるで違うのだった。
どんなに頑張っても、どんなに努力しても、それだけは変えられない。
どうしたって自分は景麒の二人目でしかなく、決して一人目にはなれないのだ。
その動かしがたい事実は、想像以上に陽子自身を打ちのめした。





いかにも高価な飾りを、陽子は躊躇なく毟り取り引き剥がし投げ捨てていく。
足許には使い物にならないがらくたが増え続けた。少女の指先は薄く傷つき爪は不恰好に欠けていた。
――そのようにしては、女御や女史が悲しむのではありませんか。
最もらしい口調で景麒は諭した。
陽子はぴたりと動きを止め、大儀そうに傍らの麒麟を見上げる。
何も語ろうとしない唇は引き結ばれ、口角をわずかに上げているだけだった。
それは陽子が時折見せる、相手への憎悪と自身に対する嘲りや卑しみの混ざり合う、歪な微笑だった。

しばらくそうして景麒を見つめたあと、陽子は再び顔を抽斗へ戻した。
再開された腕の動きは探るような手つきで、がしゃがしゃと乱暴な音を立てながら御物を掻き分ける。
よく見知ったはずの横顔が今は硬い。
やがて彼女は、ひとつの首飾りを取り出した。光沢のある黒く丸い真珠が隙間なくびっしりと連なった首飾りだった。
陽子は、じゃらり垂れ下がるそれを握り締めたまま景麒の胸に突き付ける。
――お前も、これを壊してみるといい。
残酷な微笑みを浮かべて残酷な言葉を、彼女は言い放った。


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