Novel


□素粒子
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突き付けられる首飾りには目もくれず、景麒はただ主の瞳の奥を覗いていた。
すると陽子は苛立ったように告げる。
――壊せ。命令だ。
短いひと言に、景麒はようやく自分の胸許を見下ろした。小柄な手に握られた黒真珠の飾りを自らの掌に引き取る。
両手に持ち、力を込めて左右に引っ張ると、真珠を繋いでいた糸は軽い手応えと共にぶつりと切れた。
丸い物体はあっさり離ればなれになり、固い床の上へ素っ気ない音色を降らす。
その様を陽子は無感動に眺めた。

ころころと足許を虚しく移動する珠を、陽子は屈んで幾粒か掴み取る。
それからほっそりとした腕をしならせるように振り翳すと、景麒の身体目がけて粒を投げつけた。
ぶつかって跳ね返った丸い塊りは、再び落下し地面に叩きつけられた。





――出ていけ。
不気味なほど静まり返った堂室の空気を切り裂くように、陽子は命じた。
今すぐここから出ていけ、と。
そんな陽子を、景麒は憐れに思った。
例え理不尽な八つ当たりを己が受け止めたとしても、彼女の気分が晴れることはないと知っていたから。
理不尽さを黙って受け入れる己の行いを、陽子が憎んでいることも知っていた。
それでも景麒は主の命令を忠実に守る。目を伏せて、彼女に背を向けた。

出口までの距離が長い気がする。そんなことを考えながら足を動かしていた。
堂扉に手をかけようとした時、背後から小さな否定の呟きが追いかけてきた。
振り返ると、陽子は肩で息をつきながらひっきりなしに言葉を紡ぎ始めた。
――嫌だ。行かないで。やだ。駄目だ。景麒。行くな。嫌だ。行かないで……。
出ていけと命じた同じ唇で、彼女は必死に行かないでくれと請い、喚いた。
次々と停止の言葉を吐き出す主の傍へ景麒が歩み寄る頃には、彼女はその場に膝をつき泣き崩れていた。
宥める景麒にすら構わず、陽子はただしきりに否を唱え続け悲鳴を上げる。
いつしか言葉さえもなくなり、意味のない叫び声だけが谺していた。



陽子は正気を失っていた。
落ち着かせるために伸ばされた景麒の腕を払いのけるように、手を振り上げる。
その手が景麒の顔を掠め、少女の欠けた爪の先が彼の白い頬に筋を作った。
微かな痛みに景麒は眉を蹙める。
陽子は瞠目し一瞬だけ声を呑み込むが、すぐにまた顔を歪めて泣き出した。
この華奢な身体の一体どこから、こんな叫びが生まれてくるのか不思議だった。

程なくして、騒ぎを聞きつけた官吏や兵たちが慌てて駆け込んできた。
景麒はしかし、蹲る陽子を庇いながら視線だけで彼らの動きを封じた。
何でもない。だからそれ以上はこの場に誰も踏み込んで来るな――と。
景麒の暗黙なる双眸と、あまりにも異様な光景にたじろいだ彼らは、うろたえながらも礼をとり立ち去った。
遠のいていく足音は、未だ喚き続ける少女の声に掻き消されて最早分からない。



やがて悲鳴が途切れがちになると、彼女の渇いた喉は咽せて咳き込んだ。
苦しげに丸めたその背を景麒はさする。
彼女は激しく咳き込みながら、次いで肺の中へ空気を取り入れると、今度は吸った息を吐き出せなくなった。
引き付けを起こしたようにしゃくりあげ、ままならない呼吸に陽子は喘ぐ。
息苦しくて溺れてしまいそうだった。

景麒は陽子の頬を両手で包んだ。その顔は手の内にすっかり収まってしまった。
少女の、いたいけな掌が彼の手首にしがみついた。溺れないように。
瞳から零れ落ちる大粒の涙を景麒は指のはらで掬いながら、大丈夫だと囁く。
――大丈夫です。呼吸をしてください。ゆっくり。わたしと同じように。ただ息をするだけです……。
何も難しいことはないと、繰り返した。
彼の声と息遣いに合わせて、陽子は次第に正常な呼吸の仕方を思い出した。
両の頬に宛がわれた温もりに安堵し、意識はようやく平静さを取り戻す。
深呼吸をしてゆったりと瞼を閉じると、新たな滴が一筋、流れ落ちた。





涙と汗でべたつく少女の顔を景麒は頓着なく袖口で拭い、乱れた髪を撫でる。
陽子は放心したように呆然と座り込んでいた。取り乱したことに本人がいちばん動揺しているようだった。

陽子は景麒のされるがままに、まだ荒い気息を整える。ひどく疲れていた。
少し首を捻ると、辺りには自らの手で壊したものたちが無様に散らばっている。
美しかった飾り物たちの、脆く醜くなってしまった姿を陽子はぼんやりと眺めた。
だがそれも、景麒がなかば強引に陽子の傾けた顔を元の位置へ向き直させたため、視界から途絶えた。
そして彼は少女の頭を抱え込み、自身の胸へと小さな顔を埋めさせる。
まるで、あなたは何もしていないのだと言い聞かせるふうでもあった。
陽子は力なく床に垂らしていた腕をのろのろと持ち上げ、ぎこちない仕草で景麒の服を握り締めた。


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