Novel


□紫翠
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新王を迎え元号が赤楽に改められてから、慶の国歴はまだ二年を示すに過ぎない。
それでもこの国は、ようやく大きな変化の流れへと漕ぎ出そうとしていた。





拓峰の乱から一月近くが経つ。
雁へ遊学中という体裁を取っていた女王も無事に帰還し、正式なやり方とは言えないがどうにか初勅の発布にも至った。
以降も官吏の大幅な人事異動に伴い、宮中は忙しない雰囲気に包まれている。
当然、陽子も景麒も例外なく、日々は慌ただしく過ぎていった。



自室で書き付けをしていた景麒の腕がふと止まったのは、そろそろ日付も変わろうかという頃合いだった。
近づいてくる光のような気配と共に、何かが落ちる鈍い音に混じって短く甲高い声が届き、彼は顔を上げる。
訝しみながら席を立ち、声のした方――園林に面した露台へと足を進めた。
薄々と覚えた嫌な予感は的中だった。
床から天井まで大きく取られた窓。その向こうで地べたに膝をつく主の姿。
景麒は眉間に皺を寄せ、思わずこめかみに手をやる。溜息はどうにか抑えた。
そして改めて窓を開けた。

「何を――」
なさっているのですか、という問いは呆れ果てて最後まで言葉にならない。
何をも何も、だいたい見当はつく。
庭から露台の手摺をよじ登って乗り越えたはいいが、大方夜着の裾にでも足をとられ、すっ転んだのだろう。
何故この人は時々こうも無防備に、尚且つ驚きのどんくささを発揮するのか。
おそらく口には出して言えないであろう思いを、景麒は内心で噛み締めた。
そんな麒麟をよそに、陽子は膝をついたまま顔を上げ事も無げに口を開く。
「あ、よかった。まだ起きてた」
景麒は深い深い溜息を落とした。



夜の庭をひとりで歩き回るなど危険すぎるとか、どうして正面から訪ねて来ないのだとか、言いたいことは山程ある。
あるが、ひとまずそれらは呑み込み、景麒は屈んで手を差し出す。
「お怪我は」
訊けば、陽子は景麒の助けを借りて立ち上がりながら答える。
「ないよ。ありがとう」

景麒の新しい主は――胎果であるということを見積もっても――かなり非常識なことをやってのけると思う。
少しは慣れてきたつもりだったが、やはり振り回されている気が大いにする。
説教のひとつでもしてやりたくなるが、そんな考えは諦観という名のもとに吸い込まれていった。
こんな時分にどうしたのか、と主を自室に招き入れながら景麒は問いかける。
すると陽子は曖昧な返事をした。
「別に、何もないんだ。ただ、わたしが帰ってきてから景麒とゆっくり話をする時間が取れなかったから……」



官吏の異動やら、陽子の留守中に溜まった事務処理やら何やらでお互い忙しく、顔を突き合わせる余裕もなかった。
下界での生活を切り上げ陽子が王宮に戻ったのは、自分に決着がついたからだ。
それだけが理由ではないけれど、ただ陽子は景麒と話をしたかった。
いろんなことに踏ん切りがついた今、この半身とやっと対等になれる気がした。
すべてが中途半端なままにここを飛び出してから、あの頃には無理だったかもしれない多くを取り戻したかった。
どんなことでもいい。何か、お互いにとって必要なことを示し合いたいのだ。

陽子はとりとめもなく早口になった。
軽い焦燥すら感じさせる調子で、とにかくちゃんとした話がしたかったのだと。
「だけど景麒も忙しくて、本当に話そうと思ったらこんな時間しかないし。かといってわざわざ夜遅くに女官を呼びつけて取り次ぎを頼むのは気が引けるし面倒だったから、ばれないように裏から来た」
少女は一気に捲し立てる。
夜遅く下僕の自室を伺うことに関して気は咎めないのか、という疑問はこの際なかったことにした。

麒麟の常識を越えた陽子の言い分に景麒はただ、さようですか、と答える。
陽子は至極真面目に頷いた。
それからほんの少し、沈黙があった。
景麒は相変わらず口数が少ないし、陽子自身、話さなければとは思いつつも、どう切り出すべきか考えあぐねていた。
所在なげに傍らの書卓を見やると、端正な文字の並ぶ書き付けがあった。
「――字が、きれいだね。わたしの下手な字とは大違いだ」
陽子はぽつりと呟いた。
幾らか気まずさを感じた景麒は、さりげなく紙面の束を折り畳んで言う。
「それは、主上がまだ文字を書くのに慣れてらっしゃらないからでしょう……」
主は軽く笑っただけだった。



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