Novel


□紫翠
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「――初勅のことだけど、悪かったとは思ってるよ。……少しだけ」
陽子は突然そう口にした。
「何の相談もしないで勝手に決めてしまったし、だけど景麒に言えばまず絶対に反対されるだろう。だから、もう強行突破してやろうと思って」
言いながらも彼女はごめん、と謝る。
「でも後悔はしていない」
とても、きっぱりとした口調だった。
初勅のことは、景麒も既に納得して受け入れている。とやかく言うつもりもない。
初めこそ否を唱えたものの、陽子の真摯な説得はきちんと半身にも届いたのだ。
そう伝えようとして、結局うまく言葉が紡げずに景麒は黙って主を見下ろした。

そうだ、と陽子は思い出したように声を上げて景麒を仰ぎ見た。
「あのね、友達ができたんだ。わたしと同い年くらいの女の子二人で、景麒も見かけたと思うけど。ひとりは海客なんだ」
嬉しそうに陽子は語る。
「これも勝手に決めてしまったけど、二人には金波宮で働いてもらうことにした。今度、景麒にもちゃんと紹介するよ」
主の口は息つく間もなく、よく回った。
街で出会った仲間のことを、どんな関係を築いてきたかを、どれだけ信じられる者たちかを、景麒に話して聞かせた。
王宮に迎え入れる仲間ができたこと。それは陽子にとっていちばんの自信だった。
他ならぬ彼女自らの手で掴み取った真実、かけがえのない存在だった。

「少しは賑やかになるかも。粗野な人間が多くて景麒は馴染みにくいだろうけど、でもきっとうまくやっていけると思うから。それから、あと……」
そこまで喋って陽子の声は途切れた。頻りに、それから……と口の中で繰り返す。
躊躇いがちに顔を伏せた。
俯いた拍子に、湿気を含んでしんなりと柔らかなそうな赤い髪が零れ落ちた。
陽子のふっくらとした頬にかかるそれを目で追い、景麒は無意識に腕を伸ばす。
自然な手つきで彼の指先が髪に触れた。
緩やかに波打つ想像どおりの柔らかい髪を払うように肩へ流し、静かに告げた。
「――そのように焦って喋らずとも、最後まで聞いております」



意外なほど優しげな声音に、陽子は瞬いて景麒を見上げる。
そうして、ほっと小さく息を漏らし、少し含羞んだふうに幼い笑みを浮かべた。
その笑顔が、景麒の胸の芯を微かに揺さぶる。愛しくも切なくもあり、ぽっかりと罪悪感が生まれるようでもあった。
いつも失念してしまうのだ。目の前の主が、ほんの十六、七にしかならない少女であるということを――。
まだ子供と言っても差し支えないほど彼女は、本来は幼い人なのだ。
そんな当たり前すぎる事実に気づく時、景麒は戸惑ってしまうのだった。

何も言えずに押し黙っていると、陽子が不意に、ありがとう、と囁いた。
「いろいろ、ありがとう。桂桂のことも、戦場に来てくれたことも。まだ、きちんとお礼を言ってなかった」
助けてくれてありがとう――。
陽子を主に迎えてから、幾度となく耳にしてきた心地よい響きだった。

「まだまだ助けてもらわなくてはいけないことが、たくさんあるけれど」
少女は笑った。
「頑張るよ。学ぶべきことが山積みだって下界で暮らしてみてよく分かった。政のことも民のことも、文字の練習も」
どこか楽しそうに言う。
「しばらく景麒には、補佐じゃなくて講師の真似事をしてもらうから」
よろしく、と無邪気に微笑む。その笑みにつられて景麒もまた目を細めた。
「――何なりと」





ひととおり会話に区切りがついて陽子は、じゃあ、と言って踵を返す。
ところが向かった先が露台だったので、景麒は慌てて引き止めた。
「お待ちください。まさか、そこから戻るおつもりですか」
すると彼女はきょとんとした顔になる。
「え、だってここから入ったし」
入ったところから出ていくのが当然だろう、とでも言いたげな様子だった。
考え方は確かだが、そもそも入口と見なしている場所が甚だしい誤りである。
毎度、猫のようにあらぬ場所から入ってこられては敵わない。正しい出入口を認識してもらわねば景麒としても困るのだ。
微妙にずれたところで世話の焼ける主を持ってしまった、などと彼は思った。



ひとりで戻るからいい、と断る陽子を無視して景麒は主を正寝まで送り届けた。
淡く仄かな灯りだけを頼りに薄暗い回廊を歩きながら、もしかしたら手を取り合うことも可能だったかもしれない。
だけど、それは違う気がした。
手を繋いで歩いたりとか、たぶん二人にはまだ時間が必要だった。
だから今は、偶然を装ってぶつかり合った互いの指先にぎこちなく触れてみる。
その先は何となく竦んでしまうから、あと少し待っておこうと思う。















※※※

『風の万里〜』後、二人はこれぐらいの歩み寄りを見せるべきだと思います。

20110718
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