Novel


□Heart's blood
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執務室はもぬけの殻だった。
開け放たれた窓からは湿った空気が流れ込み、景麒の長い金髪を揺らす。
手を付けかけていたとおぼしき書類が風にさらわれ、卓から落ちて床の上に数枚ばかり散在していた。
景麒はそれらを拾い上げると元あった場所に戻し、さらに重石をのせた。



房間の主は、庭に降りて息抜きと称する気まぐれな散歩にでも出たのだろう。
ここのところ天気がぐずついていたせいで夏の暑さにも歯止めがかかり、今日は比較的過ごしやすい一日だった。
気持ちよくなって足が外に向いてしまうのも分かる。あの少女なら、とくに。

天候が崩れると頭が痛くなる、と陽子はぼやいた。湿気や気圧の変化のせいだと。
景麒には理解しがたいことを説明する主の、しかし頭痛がするという言葉は嘘やでたらめなどではなさそうだった。
断続的に雨が降り続いたこの数日、確かに彼女の顔色は良くなかったからだ。
まばらに散る雲間から蒼天の切れ端が覗く午後、では庭に駆け出せるぐらいの元気は戻ったのか――。
考えるともなく思いながら景麒は窓辺に近寄る。微かな王気が浮遊していた。





――わたしを見つけてごらん。
ありもしない声が、ひっそりと耳打ちでもしてくるみたいな気がした。
無造作に開けっ放しの窓が、まるで探して欲しいのだと囁いているようだった。
新しく吹いた風が景麒を誘導する。

窓を越えて陽子が残した光の筋を伝いながら、彼女の歩いた道を辿った。
こうした追いかけっこが、いつの間にか習慣になっている。陽子は逃げて、景麒は掴まえる。その繰り返し。
地面を這うように細くたなびく淡い気配は、静かな木立の中へと続いていた。
木漏れ日程度にしか陽射しが届かないその場所は、空気も多少冷える。ひんやりとした気流が肌をなぞった。
やがて一本の樹木の前で足を止める。視線を上に送ると、そこに彼女はいた。
木の幹を背凭れがわりに、主軸から太く分かれて伸びた枝へ器用に腰掛けている。
濃い緑色の屋根の下で、陽子の赤い髪がひときわ鮮やかに映った。





「――なんだ。もう見つかった」
景麒の姿に気づいた陽子は、軽く笑いながら首を捻って下方を見やる。
高すぎるという程の位置でもないが、簡単に手の届く範囲に少女はいなかった。
ひとつ息を吐き、降りてください、と景麒は上方に向かって言う。陽子はただ微笑むだけで、従わなかった。
「高いところは気持ちがいいな。……景麒を見下ろせるのも悪くない。いつも、わたしが見上げてばかりだから」
楽しそうに主は答える。さようですか、と景麒は力なく呟いた。
彼女の身のこなしの良さは、高木の上だろうと何ら問題なく発揮されるようだ。

すぐに降りる気はないらしく、しばらくすると陽子がぽつりと語り出した。
「子供の頃、木登りをしたかったけど父親が許してくれなかった。そんなのは女の子のする遊びじゃないって」
景麒は黙っていた。
「父はね、女の子が男の子みたいなことをするのが嫌いだったんだ」
遠くに目を細めて話す陽子は、どこか虚ろな印象を受ける。主が蓬莱にいる両親の話をするのは、めずらしかった。
だから不安になる。この距離が。
彼女が過去を見つめる時、その瞳の先では景麒自身は現実として存在できないのを知っているから。





陽子は束の間、頭の片隅に纏められていた記憶の糸を手繰り寄せてみる。
そこにあるのは、もうほとんど思い出すこともない懐かしい人の姿だった。
甘やかすことを許さなかった頑なな父。その背後で従うことだけに徹した母。
父は、男は外で働き女は家庭に入るという古びた考えを捨てられない人だった。
女の子は女の子らしく淑やかであるべきだと、信じて疑わなかった。
母は、ただ黙って目を瞑っていた。
今にも蘇ってきそうな父の声。
――木登りなんてするんじゃない。
――ジーンズなんて履くんじゃない。

過去から現実に引き戻されたのは、景麒が再び言葉を発したからだ。
降りてください――と。
先程よりもやや強めな口調でひと言だけ告げる半身を、陽子は見下ろす。
相変わらずの無表情で自分に視線を投げ続ける彼の綺麗な顔を見つめて、陽子はゆっくりと口を開いた。
「――お前が、ここまで登ってきてくれたら、降りてもいいよ」
薄い微笑を浮かべて条件を下すと、陽子はまた顔を逸らして遠くを眺めた。
小鳥の羽撃きが木の葉を揺らす。雲の流れが早い。ふとざわめきを増す自然に身を委ね、ぼんやりとしていた。
あまりにもぼんやりとしすぎていたので、陽子は気づかなかった。



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