Novel


□Heart's blood
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「降りてください」
今度こそ間近に迫ってきたその声に、陽子はびくりとして咄嗟に振り向いた。
下にいたはずの景麒が目の前にいる。
まさか本当に登ってくるとは思わなかったから、うまく反応ができない。
信じられないものでも見るように陽子がまじまじと半身の顔を凝視していると、景麒は平然と言ってのけた。
「木登りもできないような、非力な麒麟だとでもお思いでしたか」
別にそんな風に思っているわけではないが景麒と木登りという行為は正直なかなか結び付かない――と内心で呟いた。
黙りこくる主に向かって、やはり彼はもう一度請うた。降りてください、と。

あっさり条件を呑まれてしまった陽子は仕方なく景麒の後に続き、長居していた木から腰をあげて地面に降り立った。
名残惜しげに樹木の肌を撫でる。
真っ直ぐ帰るのは気が進まないと訴えると、景麒は何も言わず、適当に道を変え適当な順路を選んで歩き始めた。
とくに会話もなく、彼とちょうど一歩分の間隔をあけて陽子はついて行く。






しばらくの間おとなしく後ろをついて来ていた陽子の足音が俄かに止まった。
どうかしたのかと振り返ると、彼女はただ景麒を正面から見据えて佇んでいる。
何か言いたいことでもあるのかと思えばそうでもないらしく、黙ったまま一向に彼から視線を外そうとしない。
余計な問いかけさえそぐわない気がして、景麒は同じように沈黙していた。
とはいえ思わずたじろぐ程にじっと見つめてくるので、些か居心地が悪い。
さすがに疑問を口にしようかと迷ううち、不意に陽子がこちらへ近づいてきた。
そうして躊躇いも逡巡も一切なく、彼女は景麒の背中に腕を回したのだった。

未だに状況を把握できないまま、景麒は少女の温もりを受け止める。
陽子は広い背へと回した手に力を込め、そして小さな耳を深く隙間なく、景麒の胸に押し当ててじっとしていた。
腕の中から寝言めいた声が漏れた。
「心臓の音がする……」
ぼんやりとした呟きが、何故かどうしようもなく彼自身の根底を揺るがした。
おそらく今まで強く望みもしなかっただろうこと――生きたいという至極当たり前で単純な願いが身内から溢れ出した。

これは、なんだろう。まるで生命の源に彼女が直に触れてきたような不思議。
衣擦れの響きでさえ妨げになるのではないかと危惧しながらも、景麒は陽子の身体を慎重に抱き寄せる。
長い髪をそっと指先で掬って撫でた。
そして、祈った。



――聞いてください、この鼓動を。
今あなたの前でこの心臓は、脈を打ち、血を流し、息づいている。
あなたなしでは、動く意味すら失うこの心臓。あなたの存在が意味を与える心臓。
自分の心音を己の耳で聞くことは決して適わない。ならばせめて、あなたの耳でこの音を確かなものにしてください。
どうか――。








規則正しく刻まれる拍動に耳を傾けながら、陽子は眠りに落ちてしまいたくなる。
心地よい揺りかごの中で、無防備に自分を預けて瞼を閉ざす。そうすると、もう陽子には景麒の心音がすべてだ。
この音と一緒に溶けてしまいたかった。
穏やかな血の流れに紛れて、このまま彼の奥へと溶け入ってしまいたかった。
そうすれば二度と離れることもなく半身であることもなく、ひとつになれるのに。
一生、寄り添っていられるのに。

だけど二人の心臓の音は、やはり別々の場所で打ち鳴らされていた。















※※※

Heart's blood … 心臓内の血液・心血/生命・真心/大切なもの
何となく使用しただけなので、さして深い意味はないのですが。

20110827
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