Novel


□己がじし
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少女はどうやら趨虞の背に乗るよう自分を促しているらしかった。
よく分からないまま、ただ彼女をがっかりさせたくないという気持ちで、獣はおそるおそる広い背中へよじ上がった。
四肢を折ってなるべく縮こまる。すると、この躯を支えるためか紐のようなもので胴体を括られた。
そして獣を背後から庇い込む体勢で少女もまた趨虞の背に跨がった。
――やっぱりちょっと難しいかな……ごめんね、たま。上まで頑張ってくれ。
華奢な手が毛並みを撫でて手綱を取る。
趨虞は、お任せください、とでも言いたげに太い首をひとつ振り、折り曲げていた脚を伸ばして力強く立ち上がる。
そうして体重を感じさせない動作で、ふうわりと飛翔したのだった。

地上はみるみるうちに遠ざかっていく。
飛翔能力を持つ種に生まれながら、今まで一度も空を駆け巡ったことがない。
飛ぶ、という行為が、こんなにも素晴らしく気持ちのいいものだという事実を、獣はこの時ようやく知った。
自分も飛んでみたい、と思った。風を切ってどこまでも自由に飛んでいきたい。
獣は生まれてはじめて心から願った。





信じがたい時間が過ぎ去り、辿り着いた場所で騎獣の背中から降ろされた。
少女も軽やかに降り立つ。長時間の飛翔を強いた趨虞を労ってから、その背を叩き再び空中へと送り出した。
――あとでお礼を言わないと……。
ぽつんと呟く声を獣は聞いた。

見たこともない大きな門扉をくぐり抜け見たこともない人間とすれ違い、最終的に廐舎とおぼしき所へ通される。
そこには年かさの男がいて、彼は少女と獣を見るなり驚いたように目を見張った。
おそらく廐舎を取り仕切っているのであろうその人間と、彼女は言葉を交わす。
話をしながら男はさりげなく手を伸ばし、かさついた掌で獣を撫でた。
会話に区切りがつくと、少女は再び獣を外へと促した。
獣は少しずつこの見知らぬ娘に好意を抱きはじめていたので、おとなしく従う。
彼女は自分を決して悪いようには扱わないと、本能で感じ取っていた。

連れて来られた場所は、これもまた見たことのないぐらい広大な緑の庭だった。
目眩がしそうなほどだった。
眼前に広がる一面の草地に圧倒されていると少女が獣の背を撫でる。
――少し散歩でもしておいで。
かけられた声に、獣はどうすればいいのだろうと首を傾げて少女の目を覗き込む。
そして彼女がとても綺麗な翡翠色の瞳をしていることを知った。
吸い込まれそうな双眸に見入っていると、別の気配が忍び寄ってきた。



――……それは、いったい何ですか。
少女は、はっと振り返る。
背後には、やはり見たこともない美しい青年が立っていた。少女よりも随分と背が高い彼は輝く金色の髪を持っていた。
――何って、見ての通りだけど。
今まで獣に話しかけていたものとは違う、硬く強張った声音だった。
金髪の青年はこちらを一瞥する。冷ややかな視線を注がれ、獣は縋るように少女へと擦り寄った。
――この間からこそこそと何をしているのかと思えば……どこでそのようなものを拾ってきたのです。
青年の声には温度が感じられない。
――別にどこでもいいだろう。迷惑はかけていないつもりだが。
言葉の応酬はそこで途切れた。

しばらく彼はじっと少女を見下ろしていたが、やがて黙って踵を返した。
少女は睨み付けるように青年が戻っていった先に目を据えている。
獣は落ち着かなくなって、鼻先で彼女の腕を揺らした。少女は視線を獣に戻す。
――ごめんね。あいつは、頑固で融通がきかないんだ……。
首筋を撫でられる。慰めてくれているらしいが、自分よりもむしろ彼女のほうが落ち込んでいるように獣は感じた。
わずかばかり気落ちしている少女と共に、とりあえず庭を一巡りしてからまた廐舎へ足を向ける。
先程と同じ男が迎えてくれた。



それからも少女は頻繁に廐舎にやって来ては獣を庭に連れ出した。
昨日今日と続けて来ることもあれば十日ほど間が空くこともあった。
ほとんど気まぐれなのだろう。しかし彼女はどことなく落ち込んでいる時にやって来ることが多い気がした。
獣はすっかりこの少女が大好きになっていたので、沈んだ様子を見ると心配だったし元気になってもらいたかった。
彼女の笑顔が何よりも好きだったのだ。
こんな風にたくさん動いて少女と戯れるのは獣にとっても至福であり、今まで教えられたことのない喜びに満たされた。
広い草原を目一杯駆け回っていると躯の内側から力が解放されていくのを感じる。
いつしか、少女よりも低かった己の目線は同じ高さほどになっていた。

――少し大きくなったかな。
耳の後ろを甘くかかれ、獣は気持ちよさげに目を細めて喉を鳴らす。
――お前は、本当は飛べるんだよ。いつか飛べるようになれたらいいね。
柔らかい頬をぺろりと舐めれば少女はくすくすと楽しそうに微笑む。それがとても嬉しくて獣はじゃれついた。
彼女は声をあげて笑った。



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