Novel


□己がじし
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戸外へ出て存分に動き回ったあと、そのまま緑の寝床で短い昼寝をすることも珍しくはなかった。
もちろん少女も一緒に、である。
あたたかな陽気の中でひと眠りするのは気持ちがよく、その時も草の匂いに包まれながら午睡していた。
微かな物音がして、獣の耳がぴくりと反応を示す。ごく自然に目を開けた。
寝そべったまま首を反らして気配のする方へと顔を向ければ、以前に一度だけ見た金髪の青年が佇んでいた。
獣の隣に横たわる少女は、相変わらず寝息を立てて眠り続けている。

獣はこの青年が苦手だった。
はじめて対面したあの日、彼は己に対しても少女に対しても概ね冷たい態度をとっていたように思うからだ。
だから少しばかり緊張してしまうのだが、しかし当の青年は今や獣には目もくれず眠る少女を一心に見つめていた。
無表情ではあるが、不思議とあの時のような冷酷さは感じられなかった。
まるで伺いを立てるように獣はそろそろと青年の傍へ近づいてみる。
すると彼はしばし獣を見下ろしてからおもむろに腕を伸ばし、意外なほど優しい手つきで背を撫でてくれた。

端整な顔立ちは表情に乏しく相手を怯ませるが、こうして撫でてくれる掌からは敵意など一切感じない。
涼しげな目元を覗き込むと、彼の瞳が柔らかい紫色をしているのが分かった。
青年は人間の形をしているけれど、なぜか獣には彼が自分と同じ気配を湛えている気がしてならなかった。
それよりももっとはっきりと理解できたのは、この青年が己と同じように少女を慕っているということだった。
獣は少女のことがとても好きだから、すぐに分かる。彼も少女が好きなのだと。
そして少女もきっと彼が好きなのだと。



少女が身じろぎをした。
それに気づくと、青年は彼女が起き出す前に庭から立ち去ってしまった。
眠りから覚醒した少女は小さく欠伸をしながら目をこすり、獣の傍に寄る。
毛並みを梳いてやりつつ、まだぼんやりとした眼差しでその背を眺めた。
不意に、ちらちらと視野の端で光るものを捉えた少女は手を止めて目を凝らす。
そうっと慎重に、獣の毛に絡んでいるものを指先で掬い上げる。
糸のように細い、金色の髪だった。
少女は獣の顔をまじまじと見つめ、それからついさっき青年が歩み去って行った方角へ視線を送った。





それぞれが日常を反芻する。
少女は変わらず定期的に獣を連れて庭へ繰り出した。彼女は元気のない時もあったし機嫌のいい時もあった。
幾度か、自分たちの様子を遠くから眺めている青年を見かけることがあった。
彼の匂いを獣はもう覚えていたので――時折それは少女の身体からも香る――青年の姿を認めるのは容易だった。
少女も彼の存在を分かっていたが、ちらりと青年を見返すのみで普段通りに振る舞うのが常だった。





日々は着実に獣を成長へと導いた。
細いばかりだった脚にはしなやかな筋肉が這い、しっかりと地面を踏みしめる四肢が支える躯は逞しい。
少女の目線はもう完全に下にあった。

走り慣れた庭。いつも通りの午後。その日は少女と、珍しく青年も共にいた。
空は青く広く晴れ渡っていた。
奇妙な躍動感が身内中を血流の如く巡っている。獣はそう感じていた。
一歩また一歩と脚を踏み出すごとに、これまでとは違う感覚が獣を促す。
そうして勢いよく地面を蹴ったその瞬間、唐突な浮遊感が全身に訪れた。
四肢は、もはや草地ではなく空を蹴っている。躯が羽のように軽い。もっと、もっと上へと、この身は空中に踊り出る。
――獣は、はじめて空を飛んだのだ。
少女が何か叫ぶのを、聞いた気がした。



ひとしきり空を散歩してから地上に舞い戻ると、少女が駆け寄ってくる。
そしてものすごい勢いで獣を撫で回したり首筋に巻きついたり、興奮した様子で何事かを言い立てた。
やはり何を言っているのか分からなかったが、少女がとても喜んでくれていることだけは確かだった。
いちばん大好きな笑顔で己を迎えてくれたのが嬉しくて、獣は少女の頬に何度も何度も頤を擦りつけた。










***



あ、と驚く間もなく獣の脚は既に地面を離れていた。
「――飛んだ……!」
陽子が声をあげる。無意識に手を伸ばし景麒の腕を、いや衣裳を握り締めた。
大きな瞳をさらに大きく見開き、傍らの麒麟を見上げて繰り返した。
「飛んだ。飛んでる……っ」
そう言って、しきりに景麒の服を握ってくる。はい――と、彼は答えた。
衣を掴む手から微かな震えと幼い熱が伝わってきた。

はじめての飛翔を終えた獣が戻るやいなや陽子は一目散に駆け出す。
弾む声で思い切り獣を誉め立てる。
子供みたいに喜び、嬉しそうに破顔する少女の姿を、景麒は見つめた。















※※※

一度書いてみたかった獣視点で慶主従。
たぶん陽子は景麒と喧嘩した時とかの気晴らしに獣と遊んでると思います。

20120430
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