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何も知らないあなた。

清らかであれと言う。穢れてはならぬ不浄に染まってはならぬと。
まるで天の御使いか何かのように。純真無垢な存在であるかのように。
傷つけまいと醜いものから遠ざけ、弱いものを庇うみたいに、そして囁くのだ。
お前の責任ではないよ、と。



彼女は微笑む。
いいんだよ、お前はそのままで。汚れてはいけない。綺麗なままでいなさい。
景麒は悪くないんだ。これは情けない、わたしの問題だから。お前だけは正しく清浄でありなさい。
邪な想いや莫迦げた願いを抱いたとしても、押し付けたりはしないから。
誰のものでもない尊さを、くだらないことで穢してはならない。
いいんだ。わたしだけが想っていれば、すむことなのだから。



やめてください。あなたの自分勝手な優しさで、わたしを縛り付けるのは。
主上――あなたは何も分かっていない。
わたしは、あなたが思うほど美しい生き物ではないのだから。
その微笑みが、今は憎たらしい。

景麒は腕を伸ばした。
少女の襟元へ荒々しく手をかけて、力のかぎり衣を引き裂く。
同時に、柔らかな肉を微かに抉る感触が爪の先から伝わってきた。
均衡を崩した少女の身体を、ほとんど突き飛ばす勢いで床へ押し倒した。
仰向けになった陽子の上で小さな顔を見下ろしながら、明け渡すように反らされた喉元へ、景麒は掌を宛がう。
片手で十分に握り潰してしまえるほど細く頼りない、その首。
波打つ脈が指先に震動する。

なんていう無様な姿だろうか。
もはや彼女が目にしているのは清廉潔白な生き物などではなく、醜悪な欲望にまみれたただの獣でしかない。
獣の爪で、獣の牙で、この少女をずたずたにしてやったらどうだろう。
ほっそりとした首を捻ってみれば、この人は永遠に自分のものになるだろうか。
情けないのは、いったいどちらだ。



「……殺してもいいよ」
透き通った声が耳を突き刺した。
殺してもいいよ。お前には、それだけの権利があるのだから。
なんの感情も浮かび上がってこない瞳で、彼女は甘い毒を差し出した。

だから、あなたは分かっていない。
主を殺めてもいいなどという権利を持つ麒麟が、どこにいるというのだ。
無闇に赦しを与えてやるほどの価値など、この身にありはしない。
それなのに――。



景麒は喉に当てていた手を放した。
固い床の上へ縫いとめていた陽子から静かに身を引き、瞼を閉じる。
そのまま地中へ流れ込むかのごとく身体は融解し、空気に溶けて再び形を成した。
彼は転変したのだった。

陽子はのろのろと上半身を起こして、座り込んだまま傍らの獣を見つめた。
麒麟は恭しく近づいてくる。
まろい鼻先を、陽子の裂けた胸元へ擦り寄せた。そこには一筋の傷があった。
彼の爪で抉った傷が。
血は流れず、ただ薄く腫れ上がって鋭利な赤い線が描かれているだけだった。
麒麟は四肢を折って体躯を伏せ、少女の膝上に頤をのせた。
あたたかすぎる体温を見下ろしながら、陽子は温もりに手を伸ばす。
鬣を梳いて、なだらかな背を撫でた。



獣の姿で甘えてくるお前。

せっかく大事にしていたのに、この綺麗な生き物は、やっぱり陽子のせいで濁ってしまうのだろうか。
いつもみたいに?
――もういい。もう何も思い煩うことなく、ただ貪欲に休みたい。
今はもう、何も考えたくなかった。
いがみ合うことも、すれ違うことも、余計な心配もしたくない。
自分の立場や麒麟の立場や、これから先のことを考えるのも嫌だった。

眠らせて欲しい。
愛してやまない温もりの中で、すべてから逃げ出して死ぬほど眠りたい。
今は疲れていて、ただ休息を求めてる。



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