Novel


□迷路
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後片付けを終えた玉葉が堂室を出ていくのを見届けてから、陽子は突っ伏した。
どうにも堪らず嗚咽が漏れる。
せめて玉葉の前では醜態をさらしたくないと、それだけで精一杯だった。

――楽俊に会いたいと思った。
見上げてくる真っ黒な瞳も、ちょこんと触れてくる小さな手も、全部が懐かしい。
ふかふかの柔らかい灰茶色の毛並みに顔を埋めたい。彼は、あわあわと狼狽えるだろうか。慎みを持て、と――。
路頭に迷って、楽俊の手に引っ張ってもらって、ようやくここまで来た。
それなのに結局この場所でもまた、何も分からない迷い子のように、ただうろうろしているだけ。
どっちを選んでいいか分からないときは、自分がやるべきほうを選んでおく。
そう言って陽子の背を押してくれたけど、やるべきことさえ今は見出せない。



頭が、がんがんする。耳鳴りが潮騒のような音をたてて脳の中で渦巻いた。
遠くで赤ん坊が泣いている。
いつまでも纏わりついて離れない、その泣き声は陽子のものだ。

荒々しく咆哮をあげる海からの高波に掠われて、泣き叫ぶ自分がいる。
それは陽子が生まれる前の――自分自身を知覚し、存在する前の記憶だった。
この世界に実り、受け止めてくれるはずの掌に落ちることなく切り離され、流されてしまった頃の記憶。
瞼の裏に張り付いて、目を瞑れば逆巻く波の唸りと共に途方もない闇が広がる。
生まれ落ちるべき両手を見失ったまま、放り出された暗く冷たい海の底で、赤ん坊は泣いていた。
必死で自己の存在意義を証明するみたいに、身体中で泣いていた。










ろくに寝付けぬまま朝がきた。
ぬるい水で顔を漱ぐ。
鏡台の前でむくんだ瞼を眺め、うまい具合に朝議をずらかる方法はないかなどと詮ないことを考えてみる。
そうやってぐずぐずしているうちに、女官らがやって来て陽子を取り巻いた。
女王の身支度に余念のない彼女たちは、玉座に腰を据えるに申し分のない立派な装いで少女をてきぱきと飾り立てる。
いつもなら、なけなしの自由をぶつけては簡素な恰好にしてくれと抗議するが、もうそんな気力もない。
それより、このひどい顔を化粧で誤魔化してもらうことの方が先決だった。
あまり効果はなかったのだが。

泣き腫らした目元を見られるのが嫌で、しきりに前髪を弄る。
頑なに下を向き、景麒の背が無駄に高くて助かった、と内心で独りごちる。
昨日の態度を彼に謝っていないことも相まって、この気まずさと豪奢な衣裳の重みに陽子は眩暈すら覚えた。





玉座に納まり虚ろな表情で官たちの奏上を聞き流す主を、景麒は見やる。
少女の重たげに腫れた瞼や充血した瞳から、彼は意識的に目を逸らした。
――泣いていたのか。
卑怯なことを言うなら、陽子が自分の前で泣き出したりなどしないで助かった、とさえ思っている。
知らなければ気づかぬふりで済む。

涙は苦手だった。子供の涙も女の涙も。
幼い同胞が頭を垂れて泣いたとき。一度目の主が自分に縋って泣いたとき。ただ戸惑いしか生まれなかった。
耳を傾ければ、貧困に喘ぐ民の泣き声が残響のように掻き乱れる。
いつも、どこかに誰かの露わな感情が震えて転がっている。
麒麟としての慈悲や憐れみ以外の心で、それらを汲み取ってやれるほど、たぶん彼は大人ではなかった。








朝議を終え、陽子は一息つきたくて自室に下がった。
衣裳を簡素なものに改める。
水で濡らして軽く絞った手拭いを片手に、榻へ、その身を沈めた。
湿った布を折り畳んで両目の上にのせると、水気を含んで重みを増したそれは未だ熱を持つ瞼に気持ちいい。
背凭れに頭を預け、陽子は全身の力を抜くように長い息を吐いた。
急速に眠気が襲ってくる。
午後の政務についてあれこれ考えつつ、陽子は本能のまま意識を手放した。



景麒が主のもとへ訪れたときも、陽子はまだ昏睡していた。
寝息をたてる少女の姿を一瞥し、条件反射のように軽く溜息を吐く。
手にした書物やらを近くの卓へ降ろし、ふと陽子の肩口に引っ掛かった手拭いが気になって、彼は腕を伸ばす。
掴んだそれは湿っていた。目元を覆っていたのがずり落ちたのかもしれない。
よほど眠りが深いのか目覚める気配のない陽子の寝顔を、景麒は眺める。
午後からの政務に就く前に通読しておいて欲しい事案があったのだが、起こすのも躊躇われ、諦めた。



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