Novel
□小さい物語
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娘よ、泣くのはおよし、悲しみがふくれるだけだから、
戻るものなら、ひとりでに、大事なものは戻ってくる。
***
猫がいない。
仁重殿を訪れた主は、驟雨にでも打たれたかのような姿でそう呟いた。
陽子が、その猫を可愛がっていたのは景麒も知っている。
ある日どこからともなくやって来た猫は、陽子の傍をちょろちょろと動き回り、彼女の足元にじゃれついた。
人馴れた猫は、とりわけ陽子によく懐き、しょっちゅう後ろをついて回った。
夜中になれば時折、かりかりと爪を立てて窓を擦る音が聞こえてくる。
少女の起居場所まで覚えているその賢い猫は、露台に上がり込んでは窓から中に入れてくれとせがむのだった。
休日の昼下がりには、陽子が猫と庭先で戯れているのをよく見かけた。
遊びに飽きれば、猫は少女の膝の上で呑気に欠伸などしてみせて眠り込む。
日だまりの中、膝元で丸くなる温もりを撫でる主は幸せそうだった。
元来、猫とは気まぐれな生き物である。
毎日やって来るかと思えば、数日ほど姿をくらませることもあった。
だからしばらく訪い主が現れなくとも、さして気にはしていなかった。
ところが、それが四日五日と経ち、十日が過ぎても姿を見せない日が続くと、陽子は落ちつかなくなる。
つい、良くない結果を想像してしまうのだった。
まだ薄暗い明け方、濃い霧の立ち込める園林を、陽子は闇雲に歩き回った。
きっとそのうち、辺りの草影からひょっこりと猫が顔を覗かせるのではないかと、期待しながら。
だが何にも出会うことはなかった。
諦めて、無意識に足が向かう方へと歩みを戻した。
扉の外側で、王気がじっと動かずに留まっている。
迷った末、幾ら待っても主が部屋の中へ入ってくる気配がなかったので、景麒はそっと堂扉を開けた。
俯いて立ち尽くす陽子がいた。
霧のせいか、髪も服も湿り気を帯び、細かい水滴が肌を濡らしている。
堂内へ入るよう促すと、陽子はおもむろに口を開いて言った。
猫がいない――と。
何を訴えるでもなかった。
ただ、猫がいないのだと告げて部屋に入ったきり陽子は黙り込んだ。
少し目を離した隙に、気づけば少女は榻に身を横たえ背を丸めて眠っている。
景麒は溜息をつき、布を掛けてやった。
どれくらいの時間が経ったのか。
次に気がついた時、陽子はいつの間にか目を覚まし、起きて膝を抱えていた。
窓の外を眺め、やがてぽつりと呟いた。
――戻ってこないの、あの子……。
景麒は主の隣へ腰かけた。
陽子は彼を振り返り、ぼんやりと、しかし子供のように澄んだ眼差しを向けて、そして目を伏せた。
ゆるりと身体を傾ける。
凭れるように頭を男の膝にのせると、そこへ顔をなかば埋めて、縋った。
――置いていかれるのは嫌。悲しいのも寂しいのも嫌。
くぐもった声で囁くそれはどこか寝言めいて、子守唄のように彼の耳へ宿った。
陽子は再び眠りに落ちようとしている。
少女の柔らかな髪を、景麒は撫でた。
あの猫は、どこへ行ったのだろう。
気に入りの場所を他に見つけたのかもしれない。そうではないのかもしれない。
置いていかれる悲しみも、絶望も、景麒は知っている。
それを凌駕しえる幸福も。
彼女にも、分かる日が来ればいい。
***
娘よ、泣くのはおよし、悲しみがふくれるだけだから、
戻るものなら、ひとりでに、大事なものは戻ってくる。
ぼくはツグミを飼っていた、金の輪が目の
まわりにある、くちもくちばしも金いろの。
そいつのために松の実や小さいミミズなんかを
ぼくは、たからものみたいにかくしておいた。
だれにもなつかないのに、ぼくが
学校から帰ると、大よろこびして、ほんとうだ、
ぼくの言うことはぜんぶ、ともだちみたいに
あいつはわかった。二年のあいだ、すてきなことも
にがいことも、あいつだけに、ぼくはぜんぶ話した。
ある日、逃がしてしまった、あいつはヴェランダから
中庭に逃げてしまった。ぼくが大声で泣きに
泣いたものだから、みんなが窓に駆け寄った。ぼくは
あいつを目で追い、なつかしい名をくりかえし呼んだが
だめだった。屋根から屋根へさまよって、
だんだん小さくなって、遠くへいった。
まるでぼくの大きな痛みを嘲うみたいに、
ぼくの絶望を無視するみたいに。
どんなに悲しかったか、娘よ、きみにはとても
わからない。なにもかもが失われたのだ。やがて
泣きやんだのは、もとどおりになると思ってじゃない。
それなのにあいつはひとりでに、
ねぐらに戻った、たった一個の松の実に釣られて。
「ぼくの娘に聞かせる小さい物語」
ウンベルト・サバ
須賀敦子 訳
20121123