Novel


□母
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卓上の灯りを消して、そろそろ臥室へ引き取ろうかという時分だった。
辺りを憚って扉を叩く控えめな音が聞こえた気がして、陽子は燭台に伸ばしかけた手を止める。
側仕えの者も警護の者も、とっくに休んでいるはずだった。こんな刻限に自分を訪ねてくる客など心当たりはない。
陽子は首を傾げる。
訝しみながら堂扉を押し開くと、そこに立っているのは意外な人物だった。



肩まで伸び掛かった髪をおろし、いかにも就寝前といった風情の大僕は、子供を抱えて突っ立っている。
驚いていると、男はすまなそうな顔をして口を開いた。
桂桂がぐずって仕方ない、先刻まで寝入っていたと思ったら目を覚ました途端に泣き出したのだ、と。
どうしたんだ、怖い夢でも見たのか、そう宥めてはみたが、いつまでもだんまりと泣かれてしまって敵わない。
途方に暮れていたのだが、陽子のところに行きたいと、膝を抱いた子供はようやっとそれだけを乞うのだった。
明日はちょうど休みだし、申し訳ないんだが今晩だけ桂桂を預かってもらえないだろうか。彼は頭を下げた。
逞しい腕の中に収まる小さな子供は、黒目がちの瞳を濡らして怯えた小動物のように身を竦ませている。
「……おいで」
陽子が促すと、桂桂はしっかりと握り込んでいた男の夜着から手を離し、重心を彼女の方へ傾けた。
おそるおそる伸びてきた上肢が陽子の首に絡まり、そのまま子供の身体はすんなりと少女の腕に抱き留められた。
「悪いな、こんな遅くに……」
詫びてから桂桂の頭をひとつ撫で、虎嘯は自室への回廊を戻る。その後ろ姿を陽子は戸口でしばらく見守った。

十の子供は、陽子が支えるには少しばかり重い。肩に頬を押し付けるようにして凭れる桂桂の体温は高かった。
窓の外で、強風に煽られた木々がざわめいていた。今夜は随分と嫌な風が吹く。
低い獣の唸り声のように、それは地鳴りにも似て、滑らかな暗闇をじっくりと引き裂く音が耳の奥で震えて響いた。
こんな夜は、人を孤独にさせる。
まんじりともせずに蹲って横たわりながら息を潜め、ひたすら荒んだ風の音を聞いていると、それは分かる。
生きている限り人はどこまででも堕ちていくことができると。唐突に理解し、あっけないほど冷静に納得するのだ。
陽子は、物も言わずに泣き濡れる子供の背中をさすり、軽く叩いてあやした。
灯りを消して臥室へ下がる。
敷布に向かい合って寝そべると、桂桂は遠慮がちに伸ばしてきた指の先で陽子の夜着を摘まんだ。
黙って引き寄せてやれば子供は陽子にくっついてくる。赤ん坊が母親の乳房を求めるように胸元へ顔を埋めた。
――会いたいね……。
脈絡もなく陽子がそれだけを呟くと桂桂は小さい身体をよりいっそう縮めて、鼻面をきつく胸に押し付けた。
声を殺して、幼子は喉の奥で啼いた。
陽子は虚空に目を凝らす。懐からじくじくと漏れる悲鳴が夜陰に溶けてやがて無くなるのを、じっと待った。










はたと目を覚ましたのは、俄に薄ら寒さを感じたからだった。
衾を引っ張り上げながらもぞもぞと動き、そうして傍らにあるはずの温もりが消えていることに気づく。
陽子はぼんやりと瞬きを繰り返し、おもむろに臥牀から這い出た。
見渡してみた室内のどこにも、桂桂の姿はない。人気の失せた早朝の、しんと凍えた空気だけが漂っていた。
――虎嘯のもとへ帰ったのか。
考えてから、何か釈然としないものを感じ、陽子は椅子に引っ掛けてある上衣を取って堂扉に手をかけた。
夜着のまま上から羽織を着込み、自室を出て虎嘯の居る官邸まで歩いた。
桂桂が戻っているかどうか確かめたかったのだが、それは叶わなかった。――虎嘯の邸にもいなかったのだ。
明け方も早くに現れた少女から桂桂は戻っているかと尋ねられ、虎嘯はただ首を横に振るしかなかった。
見るからに陽子の顔が曇る。
「……探す」
低く呟いて、彼女は踵を返した。男が呼び止めるのも聞かず、陽子は足早にその場を後にしたのだった。



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