Novel


□母
3ページ/3ページ


昨日の晩、まるで赤子のようにたくさん泣いてしまった。思い返してみると、顔から火が出るほど恥ずかしい。
あんなふうに甘えたあとで、桂桂は陽子と顔を合わすのが気恥ずかしかった。
それで、彼女の起き出す前に牀榻から立ち去ったのだった。
はじめ、虎嘯の邸へ戻ろうとしたが、まだ早すぎると思ってやめた。
うろうろと外に出てみる。まだ薄暗く、朝冷えのする園林は、どこかうら寂しくて心許ないが構わなかった。
少し散歩をするだけのつもりが、ぼんやりしていたおかげで、すっかり帰り道を見失ってしまったのだった。
地面にじっと視線を注いだまま語る子供の声を、景麒は黙って聞いた。
――陽子は、あったかくて柔らかくて、いい匂いがして安心するけれど、お姉ちゃんやお母さんを思い出す。
土の下から芽吹き出した若葉を食い入るように見つめ、ぽつんと漏らした。
「思い出すと、会いたくなって、だからとても悲しい……」
子供は涙声になった。

瞬きをすると怺えていたものがぱたりと落ちて、地面はそれを貪欲に吸収した。
桂桂はごしごしと手の甲で乱暴に目元を拭った。すみません、と再び謝る。
ふと頭上に大きくてあたたかな温もりを感じた。その優しさに視界が歪み、桂桂はまた甘えてしまう。
いつまでもこうして甘えていられたらいいのに、それが許されるのは、自分が子供だからだと知っている。
悲しいのや寂しいのは、桂桂だけではないはずだった。自分だけが特別、哀れなわけではない。
――麒麟には親がないと聞いた。
陽子や鈴は、そもそも蓬莱の生まれだから、もとより親兄弟になど会えない。
祥瓊にも、もういないのだと思う。虎嘯には、離れて暮らす弟がいるだけ。
境遇は皆、桂桂と変わらなかった。
昨夜、臥牀の中で陽子が呟いた言葉を、桂桂は姉の蘭玉に対してのものだと受け取っていたが、本当にそうなのか。
彼女はあの時、自分自身にとって、もう二度とは会えない人たちの姿を、夜の底に映し出してはいなかったか。
誰しもが、それぞれの心の内に、失われた人の面影を抱えているのだと、不意に桂桂は理解した。
傍らに佇む青年の、等しく天からの使者であり現人神である存在の彼ですら、例外ではないのだと。



景麒の衣服の、袂を握り締めて子供は泣いていた。人の子は、たやすく涙を零す。
自分は人ではないから、もう泣き方など忘れてしまったというのに。
人でなくとも、あの麒麟は泣いていた。

――景台輔もお母さんがいないのですか?
――麒麟には普通、いないのです。
――では、ぼくは恵まれているんですね。

幼い麒麟との会話が蘇る。
いつか陽子に、肉親がいなくて寂しくはないのかと問われた。景麒には、そんなことを訊かれる理由が分からなかった。
今、それが分かった気がする。
親という存在を、欲しいと思ったことなどない。初めから持たない母親という女性の不在を、嘆くこともない。
ただ、羨ましいと思ったのだ。
陽子の温もりに母親を思い出すのだと泣くこの子供が、母親に会いたいと泣いたあの日の小さな麒麟が。
母親が恋しい。そうした感情を持ち得ることのできる彼らが、羨ましかった。
自分の唇は生涯、母という言葉を象ることはなく、そう呼ばう対象もない。
景麒は、胸の内に潜む微かな願望がことりと音を立てたのに気づき、嘆息した。
――ひどく愚かで浅ましい。
この手で無理矢理、故郷も母親も捨てさせた少女に、自分は求めているのだ。
あらゆる重責を背負わせた娘に、自分は母親を求めている。掛け値なしに、ただ無償の愛を与えてくれと。
どうか深く柔らかな笑顔で、大地のように広く豊饒な懐で、この子供にしたように己を包んでくれと。
生ぬるく甘い蜜のような抱擁の膜で、この身を庇護して欲しいのだと。
なんて愚かで浅ましいのだろう――。










円窓から射し込む日差しの温もりが心地よくて、陽子は椅子に腰掛けながら、うつらうつらとしていた。
微睡んでいたところで、お客さまですよと女官のひとりに取り次がれた。
なんだか彼女が少し笑い含みにしていたので、陽子は首を捻る。
出向いた先で待っていたのは、景麒と桂桂だった。桂桂は、その両手に抱えた花で顔の半分が埋まっている。
目を見張ると、子供は口を開いた。
「あのね、今朝お花を渡しそびれちゃったから、さっき摘んできたの」
台輔も一緒に選んでくれたんだよ。そう言って桂桂は陽子を見上げる。
景麒と、ひと抱えもある目一杯の花々――に埋もれる桂桂――とを交互に見返して、陽子は思わず吹き出した。
膝をつき、髪の毛についた淡い一片を払ってやる。鼻先をふわふわと花弁に擽られたのか、子供は小さく嚔をした。
陽子はくすくすと笑って、差し出された溢れんばかりの贈り物を受け取る。
――ありがとう、嬉しい。
少女は今日いちばんの笑顔で答えた。










20130216
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ