Novel


□春秋歌
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愛らしき口もと目は緑





――虹って、指差すと消えるんだって。
少女はぼんやりと呟いた。



粒子のように舞う細かい雨は、気まぐれに降ったりやんだりを繰り返した。
花曇りの空からは、身を潜めた太陽の弱々しい光が疎らに漏れ射している。
生ぬるい湿気に包まれた庭の景色は、一面、灰がかったように霞んで見えた。
煙り立つ視野の遠く、色を失いかけた虹が、空中に淡く弧を描いていた。
霧状に降り注ぐ柔らかい雨滴に肌をなぶられるまま、陽子は、濡れて撓垂れた草の感触を沓裏で受け止める。
虹は指差すと消えるのだと、朧気に言う少女は、彼方に望むそれに向かって、おもむろに腕を伸ばした。
すうっと、半円に掛かった虹をなぞるふうに、陽子は人差し指で辿る。
その動きを、景麒は目で追った。
「ほら。消えた……」
指差したから消えてしまった――。
抑揚のない声音で彼女は呟いた。

本当に見えなくなってしまった虹を、それが存在していたはずの場所を、景麒はしばらく眺めていた。
視線を感じたので顔を戻すと、陽子はただ無感動に景麒を見上げていた。
それから、さっき虹を指差したのと同じ要領で再び腕を上げ、つと男の胸に向かって指を突き付ける。
ちょうど心臓のある部分、一点を穿つように、少女の指が突き刺してくる。
「――勝手に消えたら、許さない」
きっぱりと訴える主の毅然とした瞳を、景麒は静かに見下ろした。



勝手に消えてしまうのは、いつも主上の方ではないか。
心の中でひっそりと吐き出した言葉の代わりに、だから彼は答えた。
消えるはずなどないのにと。御前を離れずと、誓約を立てたではないかと。
しかし陽子は食い下がるように告げた。
だけどお前はあの時わたしをひとりにしたんだ、守ると言ったのに。
嘘つき――。容の良い唇が短く囀る。
あの時、とはつまり、主を蓬莱からこちらへ連れ帰った時のことだ。
「わたしはね……」
言って陽子は突き付けていた指を離し、今度は穿ったその場所を癒すような仕草で、彼の胸に掌を添えた。
背伸びをして、俯く景麒の口許へ、自分の唇が触れそうな程、顔を寄せる。
互いの息遣いが重なり、間近に迫る深い色の瞳を見据えながら、陽子は声を潜めて吐息だけで囁いた。
お前のことを少しだけ疑った――と。



陽子は、そっと景麒から離れた。
「いつかまた、お前はわたしを置いて、先に行ってしまうんだよ」
あまりにも確信に満ちた物言いをするので、景麒には否定の言葉も気休めの言葉も出てこなかった。
或いは、不本意ながら肯定することしかできなかったのかもしれない。
王も麒麟も、同時に世界から消えてなくなってしまえば話はもっと簡単だろうに、と景麒は思った。

腕を伸ばす。陽子がそうしたみたいに、景麒は彼女の胸に手を当てた。
ゆっくりと、押し沈めるように宛がうと、掌から微かな振動が伝わってくる。
例えばこの鼓動が消え去った時、自分の心臓も動くのをやめてしまえばいい。
景麒を呼ぶ小さな紅唇が噤まれ、一切の音も立てなくなった時、己の耳も二度と聞こえなくなればいい。
緑の瞳が永遠に閉ざされ、景麒の姿を映し出してはくれぬというならば、自分自身も消えてしまえばいい。
驚く程、物事は単純になるだろう。



睫毛の先を飾る雫。重たく濡れた髪。光の粒が頬を舐める。
反射、瞬き、分散、軌道、錯覚、煌めき、幻、黄金、赤、緑、紫、虹彩。
瞳の中にも虹が見える。
くっきりと弧状を象る唇は、鮮やかな朱を滴らせたように艶麗と潤う。
時に可憐に綻びる口許、覗く目の奥には深く湛えられた自然の緑。
消えない虹。

雨は、いつしか小止みになった。




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