Novel


□春秋歌
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ウナイ





怒声が聞こえたと思った途端、腰のあたりに鈍い衝撃を感じた。
見れば子供である。ぶつかった拍子に落としたのか、彼は地面を転がる果実を慌てて追いかけている。
全部を拾い上げる前に、先程の怒鳴り声の主がやってきた。年嵩の男は、その餓鬼を捕まえろと息せき切って言う。
怪訝に思いつつ、とりあえず陽子は逃げようとする子供の首根っこを掴んだ。
餓鬼とやらを引きずり出しながら何事か問えば男は、代金を支払っていけ、と眼下の子供に一喝した。
しばし沈黙した後、少年は不貞腐れた声で吐き捨てる。――ない。
またもや男の怒号が響き渡りそうなのを見かねて、陽子は口を挟んだ。
「代わりに払う。幾らだ?」
ひとまず勘定を済ませてやると、店主であろう男は、ぶつぶつと文句を垂れながら鼻息荒く戻っていった。



未だ不満げな子供を陽子は一瞥する。
「……なんで盗んだ?」
しかし少年は黙ったまま、睨めつけるように目の前の人物を見上げた。
「――兄ちゃん、誰」
ぶっきらぼうな声が訊いてくるので、陽子はちょっと面白がって、海客、とだけ答えてみた。
少年はわずか当惑顔になる。何それ、と変わらず愛想もなく呟いた。
虚海のずっと東にある蓬莱って国から流されて来た人のことだ、と教えてやる。
すると彼はようやっと子供らしい反応で、へぇ、と目を見張った。

少年の父親は随分前に亡くなった。母親は身体があまり丈夫ではなく、働き口もたかが知れている。
路肩に座り込んで果実に齧りつきながら、子供はもそもそと語った。
母子家庭で低所得――。陽子は内心で息をついた。
幾つかの果実を残し、他をすっかり平らげてしまうと少年は腰を上げる。
もう帰るから、と告げた。
立ち去り際、ありがとう、とごく小さな声で陽子に礼を言った。
駆け出したその背に向かって、陽子はなんとなく彼の名を尋ねた。
少年は背後を振り返りながら叫ぶ。
――ウナイ。



以降も、何度か少年と出くわす機会があった。初めて会った時と同じ付近で、再び見かけて思わず声をかけた。
彼もこちらを見るなり呆けた顔で、あっ、と声を上げた。
盗みをしてるんじゃないだろうね、と冗談まじりに言えば、少年はかぶりを振る。
「そんなんじゃない。今日は母さんに買い物を頼まれたんだ」
そうか、と陽子は笑った。
実のところ陽子はこの、ウナイという聞き慣れぬ音の名を持つ彼が、少しばかり気にかかっている。
だから用もないのに、以前と同じ場所をうろついていたのだ。
少年もまた、風変わりな海客が気になるらしく、二人してそれとなく約束事のように会ってしまうのだった。
陽子は、さながら餌付けよろしく、王宮から持ち出した菓子の類を少年に与えてやることもあった。



その日も、会うつもりだった。
ところが近頃、頻繁にこそこそと宮城を抜け出すものだから、しびれを切らした景麒が後を尾けたらしい。
あっさり捕まってしまい、ひと悶着の末、拝みに拝んで見逃してもらった。
いつもの場所へ向かうと、やはり少年はいた。彼は陽子をじっと見つめて、おもむろに口を開く。
「姉ちゃんってさ……」
そこまで聞いて陽子は眉を顰めた。
「――気づいてたの?いつ」
すかさず問うと少年は肩を竦めて、最初からなんとなく、と白状した。
でも男物の服を着ているし、女だと勘づかれたくないのかと思って黙っていた。
そんなことを零す。

「姉ちゃん、海客って嘘だろ?本当はいい御家の人なんじゃないの」
別に嘘ではないと陽子は独りごちる。
「あの人のところに戻ってあげなよ」
陽子はまじまじと少年を見下ろし、そうして深い溜息を吐いた。
――見られていたのか。
「あの人、姉ちゃんのことが心配みたいだし。俺みたいな子供なんかと一緒にいると怒られちゃうよ」
それに――と少年は思う。
あの人の隣に立って綺麗な恰好をした彼女は、きっとすごく美人に違いない。



本を読みなさい、と彼女は言った。たくさん本を読んで賢くなりなさいと。
そうすれば君が大きくなった時、きっとお母さんを助けてあげられるから。
本なら父親の遺したものがあるので、少年は頷いた。
――あなたみたいな子達が不自由なく暮らせるよう、わたしは頑張るから。
最後に彼女はそう言った。
その言葉の意味を、彼はよく理解していなかったけれど、やはり頷いた。

父は昔から本の虫だったと聞く。
少年が生まれた日にも、気に入りの本を抱えていたのだと。
そして、無数に連なる文字と音を掬い上げると、我が子に名を与えた。
少年は目についた本を手に取る。
ぱらぱら捲っていると、隙間から何か、紙が滑り落ちた。
二つ折りのそれには、懐かしい筆跡で、彼の名が記されていた。



――宇迺。




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