Novel
□景陽祭
2ページ/8ページ
美しく実る稲穂に愛を識る季節
けいき
唇に、いちばん近しいものの名前をそっとのせる。
呼ばれた男は、だまって、陽子よりもずっと高い位置にあるあたまをこちらにむけた。
「はい」
おくれて返事をして、ぺたんと座り込む、陽子のとなりにかがみこむ。
「主上」
膝でやわくにぎっている手に、見るからに冷たそうな白い手が、ゆっくりと重ねられた。
小高い丘は、田畠が見渡せて、秋のゆったりした風がよく通る。
「寒くはありませんか」
「ちょうどいいよ、だいじょうぶ」
冷たそうに見えた手は、じんわりあたたかかった。
陽子はいままで何度となく、そのじんわりしたあたたかさに、甘えてしまおうとしたのに、どうしてもできなかった。
いつもさりげなさを装って、その手をとらなかった。
それでも男は、なにも言ったり、あらわしたりすることなく、ただいちばん、近くにいるのだった。
それを、心苦しくおもうのも、もう終わりにしたっていいかな。
めのまえに広がる、稲穂の波をみて、ひとつ、天よりゆるしをいただいた気がした。
稲穂の波が、やわらかな風にそよいで、うねる。
重ねられたあたたかい手に、おそるおそる、唇をよせる。
驚くかと思ったのに、男はただ、それを受け入れるだけだ。
しあわせは、いつも、そこに用意されていた。
それを、しんしんとこころでうけとめる。
唇をおしつけたところに、頬をすりよせた。
右頬がじん、とあたたかい。
あたたかさは、稲穂をそよがせる風とつながっている。
陽子のこころの中にも吹きこんで、ざわっと波をおこした。
あたたかな、男とおなじ、ちょうど同じ温度のなみだが、陽子の睫毛を、ほおを、じゅんじゅんにつたって、男の手にしみこむ。
「景麒」
名を呼ぶと、男は、陽子のくちもとに顔を近づけた。
その美しい頬を陽子はやわらかく、手のひらでつつみこむ。
唇と唇をあわせると、彼の手のひらと同じに、じんわりとあたたかさがのこってはなれる。
しあわせで、ただしあわせで、もう一度、陽子はあたたかな手のひらに頬をすりつけた。
「だいすきだよ、景麒」
お前は、実る稲穂のいろ。
美しい、こんじき。
景麒は笑って、陽子の背に手をまわした。
20120908 ミカンズさま