Novel

□景陽祭
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美しく実る稲穂に愛を識る季節





けいき

唇に、いちばん近しいものの名前をそっとのせる。

呼ばれた男は、だまって、陽子よりもずっと高い位置にあるあたまをこちらにむけた。

「はい」

おくれて返事をして、ぺたんと座り込む、陽子のとなりにかがみこむ。

「主上」

膝でやわくにぎっている手に、見るからに冷たそうな白い手が、ゆっくりと重ねられた。

小高い丘は、田畠が見渡せて、秋のゆったりした風がよく通る。

「寒くはありませんか」

「ちょうどいいよ、だいじょうぶ」

冷たそうに見えた手は、じんわりあたたかかった。

陽子はいままで何度となく、そのじんわりしたあたたかさに、甘えてしまおうとしたのに、どうしてもできなかった。

いつもさりげなさを装って、その手をとらなかった。

それでも男は、なにも言ったり、あらわしたりすることなく、ただいちばん、近くにいるのだった。

それを、心苦しくおもうのも、もう終わりにしたっていいかな。

めのまえに広がる、稲穂の波をみて、ひとつ、天よりゆるしをいただいた気がした。

稲穂の波が、やわらかな風にそよいで、うねる。

重ねられたあたたかい手に、おそるおそる、唇をよせる。

驚くかと思ったのに、男はただ、それを受け入れるだけだ。

しあわせは、いつも、そこに用意されていた。

それを、しんしんとこころでうけとめる。

唇をおしつけたところに、頬をすりよせた。

右頬がじん、とあたたかい。

あたたかさは、稲穂をそよがせる風とつながっている。

陽子のこころの中にも吹きこんで、ざわっと波をおこした。

あたたかな、男とおなじ、ちょうど同じ温度のなみだが、陽子の睫毛を、ほおを、じゅんじゅんにつたって、男の手にしみこむ。

「景麒」

名を呼ぶと、男は、陽子のくちもとに顔を近づけた。

その美しい頬を陽子はやわらかく、手のひらでつつみこむ。

唇と唇をあわせると、彼の手のひらと同じに、じんわりとあたたかさがのこってはなれる。

しあわせで、ただしあわせで、もう一度、陽子はあたたかな手のひらに頬をすりつけた。

「だいすきだよ、景麒」


お前は、実る稲穂のいろ。

美しい、こんじき。


景麒は笑って、陽子の背に手をまわした。









20120908 ミカンズさま
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