Novel

□夏の余暇
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暦の上では秋を謳っていたが、未だ夏は盛りを過ぎていない。
傾いた日射しは幾らか和らいではいるものの、日中に蓄積された暑気は逃げ場を失い、辺りに蟠っていた。
庭園の端、申し訳程度に涼を取れそうな池が誂えられてある。
縁には池床に向けて段差の築かれている箇所があり、そこに水面から口だけを現した壺がちょうどよく立ててあった。
男は袖を庇いながら手先を浸し、ぬるまった水に洗われる壺の、くびれた口許を掴んで引き上げた。
ふと、水鏡の中で揺れる人影に気づく。と同時に背後から声が降ってきた。
「それ、何?」
屈んだまま振り仰げば、そこには赤い髪を無造作に束ねた陽子の姿があった。
誰ぞが見たら、顔を蹙めて咎めてきそうな、簡素な身なりである。

小首を傾げて除き込んでくる主にしばし目を細め、冢宰は答えた。
「――酒壷ですよ。御酒です」
少女はひとつ瞬きをすると、首を西の方角へ捻って、眩しそうに眇め見る。
「まだ日も沈んでないけど……」
こんな時分から呑むつもりなのかと、彼女の声は尋ねている。
立ち上がり、懐から布を取り出して酒壷を適当に拭いながら、浩瀚は笑った。
――こんな時分から呑むのが、気持ちいいんですよ。

宜しければ一緒にいかがですかと、軽く誘ってみれば、陽子は少し考えたあとで意外にも乗ってきた。
暇を持て余しているのかもしれない。
――ここ数日、台輔は留守だ。
喧嘩相手のいない夏の休日に、女王は些か飽いているらしい。
日陰を求めた路亭で、庭の見晴らしを肴に、二人はおもむろに酒盛りを開始した。
まだ随分と明るい刻限に、女王と冢宰、さだめし珍妙な光景ではなかろうかと、両者そろってぼんやり考える。
どこかで、ぴちち、と夏鳥が鳴いた。



差し出された酒は、微量の苦味を含む、口当たりのさっぱりしたものだった。
そもそも飲酒の趣味などなかった陽子も、適度に呑んで浅く酔えるのは案外楽しいのだと、今では理解できる。
円卓の向かいで、静かに杯へ口を当てている男を奇妙な気分で見やる。
よくこうして、ひとりで呑んだりするのだろうか。考えていると、目が合った。
物問いたげな視線を寄越される。
陽子は頬杖をついて、親指の腹で器の縁を弄ぶようになぞった。
「……浩瀚って、大人だよね」
いきなり突拍子もないことを言い出す主に、冢宰は片眉を上げた。
「寂しくなったりとか、しない?」
ほつれた髪を風に遊ばせて、既にほんのりと色づいた頬が、娘を幼くさせる。
「わたしはさ、すぐに寂しくなったり悲しくなったりするよ」
子供っぽいでしょ、と陽子はどこか愉快そうに、ころころ笑った。
浩瀚はとくに肯定するでもなく、幾分お喋りになっている女王の、あどけない面立ちを、やんわりと見守った。



たぶん浩瀚は、景麒や虎嘯と同じくらい、陽子の身近にいる人物だ。
しかし、冢宰としての彼以外の一切を、ほとんど知らなかった。
目の前の男は、その年恰好のまま、いったいどれだけを生きてきたのだろう。
仙としての命に、倦むことはないのだろうか。毎朝、姿見に映る、永遠に変わらない同じ顔を眺めて。
陽子などは、まだ指折り数えられるだけの年月しか過ごしていないから、手触りのある残酷さには届かない。
感触として生々しい孤独を得たからといって、この人の怜悧な部分が崩れたりはしないのだろうけれど。
有能で冷静で、なぜ彼が王ではないのか不思議な程、人望にも篤い。
ここまで優れた能吏を、女性だって放ってはおかないだろう。
――生涯を、共に連れ添いたいと願う人は、いなかったのだろうか。
訊いてみたい気もするけれど、訊きたくないような気もした。
或いは、訊いてはいけないような気が。

陽子は浩瀚を慕っているし、信頼もしている。ひとりの人間として、好きだとも。
伏せられた涼しげな目許。酒器に添えられた無駄のない指先。
時折、陽子はその完成された手許に、強く惹かれることがあった。
それは、例えば陽子の頭を乱暴に撫でる虎嘯の掌とも、陽子の頬を掠める景麒の指とも、まったく違うのだろう。
厳しく叱って、宥め諭し、阿ることなく諫めて、時にそっけなく、けれども従順に陽子を支えてくれるのだ。
彼は大人で、ものを知っていて、だから無性に凭れてしまいたくなる。
鷹揚であり寛容であることと、甘やかすことは決して同義ではなく、そうした分別をつけられる大人。
陽子と景麒は、実はかなり似ている。
そのうえで存在があまりにも近すぎるから、衝突や反発は避けられない。本人たちが望むと望まざるとに関わらず。
そんな時、頼りたいのは浩瀚だった。
とても身勝手で我が儘な、それを恋しいと表現するのは、きっと正しい。
多く、家族とか親兄弟に向けるのと同じ種類の感情で、だがその位置付けも半分は合っていて半分は違う。
曖昧で、微妙で、ただひとつ確信しているのは、この距離が隔たることも縮まることもないという事実だった。
信頼は、そうやって保たれている。



――余計なことを考えるのは、やめよう。
陽子は、そっと目を逸らした。



いつの間にか、宵闇が迫っていた。
夕菅の花が開いている。薄暗い庭に、くっきりと鮮やかな黄色を咲かせて。
強さを増した風は、熱を持った頬に心地よく、とろりとした眠気が絡みつく。
「……酔ったかも」
微かな吐息を零して、陽子は呟いた。
低く囁かれた言葉に浩瀚は顔を上げ、束の間、少女の横顔を見つめる。
そうして彼は、さして興味もない黄昏の庭へ目をやると、葉音に紛れるような声で、ごく短く答えたのだった。
――そのようです……。





20130824

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