08/31の日記

16:39
備忘録
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以下は、頭の中を整理するために、ただ自分用に書き残しておきたいだけの、私情も甚だしい雑記になります。
ご了承ください。
例によって、無駄に長い。

書き終えて、改めて読み返してみると、これは果たして意味があったのか…と我ながら疑問でございます。
興味のない方は、流してくださって一向に構わないものです。
読まれることを前提とした個人の日記、ぐらいに捉えてくださると良いかも。










※ ※ ※



私事で大変恐縮なのですが、先日、祖母を亡くしました。
一緒に住んでいたわけではありませんが、わたしにとっては、最後の唯一の、おばあちゃん、でした。
父方の祖父母は、わたしが生まれた時には既におらず、母方の祖父もわたしが小さい頃に他界しております。
まだ、人の死生などというものも理解できないような時分に、両祖父母の大半はいなかったのでした。
そういう方々って、結構いらっしゃるような気もしますが。
「生々しい感情を覚えた人間」としての自分が、身内の死と正面から向き合うのは、今回が初めてなのでした。
ある意味それは、きっと、とても幸いなことなのでしょう。
だからこそ、わたしは随分前から「必ずやって来る時」に対して、うっすらとした恐怖を抱いておりました。

祖母は、ここ10年ぐらい、ずっと病気をしていました。
詳しくは知りませんが、本当にいろいろな病気という病気をしていたみたいです。
それでも、新しい病を抱えては、乗り越え、幾度も復活してきました。
不死身、とまで言われたぐらいです。
とはいえ、最後の数年はやはり、見るごと見るごとに衰弱していきました。
子供の頃、夏には必ず遊びに行っていた時の、元気で明るい祖母を知っているから、介護を必要とする老いの深い姿に、軽い衝撃を受けたものです。
大人になってからは、ろくに会いにも行けなくなっていましたが、心のどこかで、弱っていく祖母を見たくない、という利己的な思いがずっとありました。
どんどん、どんどん、小さく弱くなっていく祖母を、わたしの記憶に残したくはなかったのです。
久しぶりに会う時はいつも、怯えのようなものすら感じていました。

いつか、そういう日が来た時、きっとわたしは後悔するんだろうなぁ。
分かってはいても、結局、最期まで積極的に会いに行くことはできませんでした。
言い訳をすれば、簡単に会いに行ける距離でも、なかったのです。
「ばあちゃん、そろそろ危ないよ」と聞かされても、現実的に考えることができず、ちょうど仕事もごたついていたりで、あげく忘れてしまう有り様でした。
訃報の連絡が来た時には、なんとも言えない脱力感がありました。
いざ報せを受けてしまってからは、そういうものだ、という形ですんなりと落ち着いてしまいましたが。
いわゆる、理不尽な最期、ではなく、来たるべき時が来た、として受け入れることが可能な状況だったので、周囲も悲嘆するほどではないようでした。
だからって別に薄情なわけではなく、感情的に例えるなら、悲しいより寂しい、が合っているのでしょう。

ただ、葬儀の直前までわたしも冷静ではいられましたが、どうしても怺えきれない場面は多々あったのでした。
式中の「お別れの挨拶」を、従姉妹が務めたのですが、彼女は立場的にわたしと同じ孫に当たります。
従姉妹はわたしと性格も似て、どこか淡白であっさりとしていて、直前までは涙のひとつも流さずにおりました。
それでもやはり孫の立場として、感じていることや思うところは、わたしと同じだったらしく、それを涙ながらに語る姿が、どうしようもなく堪りませんでした。
あの子が感情を露に、あんなふうに泣くのを見るのは久しぶりでした。
加えて、自分の胸にころころと、しこりのように蟠っていた部分を彼女に代弁され、知らぬふりをしていた感情が全部、押し流されていくようでした。

後から聞いた話なのですが、祖母は、最近では、ご飯もまともに食べていなかったそうです。
最後の入院生活では、自分でも「死ぬのかなぁ〜」などと、ぼんやり呟いたりもしていたようです。
それを知った時、なんとなくわたしは「もしかして生きるのを諦めたのかなぁ」なんて思ったりもしました。
諦める、というのは悲観的な意味合いではなく、もういいかな十分かな、と自分で踏ん切りをつけたという意味です。
もちろん、そうだったらいい、という、わたしの身勝手な都合のいい解釈です。
でも今頃きっと、先立たれた祖父と仲良く一緒にいるような気がします。

いろんな人の話を伺うと、祖母は本当に慕われていたみたいで(贔屓目もあるでしょうが)、少しだけ誇らしくあります。
なかでも、祖母から見て姪に当たる人たちは、いちばん寂しそうに懐かしそうに語ってくれていました。
料理上手だった祖母は漬け物もよく作っており、姪の方は、味噌漬けがすごくおいしかったと何度も繰り返していました。
「あんな味噌漬け他にないよ〜」と、ひとしきり喋っては、「本当にいい叔母さんだった」と感慨深げにしていました。
そういえば、元気だった頃の祖母を思い出す際、印象に残っているのは、台所に立つ後ろ姿と丸い背中でした。
病気をしてから、祖母は料理をしなくなっていましたが、かつて田舎の食卓に並んでいた味は、大切な記憶です。

一連の葬儀の間、たくさん祖母の身体に触れる機会を頂けました。
納棺師の方に「きれいな肌ですねぇ」と褒められた祖母の頬は、ひんやりと冷たく、でも柔らかさの残るものでした。
髪は、ふさふさとしていました。
ごめんなさい、ありがとう、さようなら。
祖母に掛ける言葉は、それ以外見つけられなかったけれど、みんなから愛情を持って見送られて良かったと思います。



このご時世、もっと理不尽で残酷なお別れを強いられた方や、多くの不幸に触れてきた方もいらっしゃるでしょう。
そんな中で、わたしが迎えたお別れは、おそらく、とても穏やかで幸せなものであったのだと、思います。
甘ったれたことを書いているんじゃない、と叱られてしまうかもしれません。
ですが、こうして自分の正直な気持を表現するのが、今のわたしには必要であったことを、ご理解頂けたら幸甚です。

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